昨日、徳島の実家では小3息子の少年野球の試合があったそうです。
結果は負けたみたいですが、息子は野球がとてもおもしろくてたまらないみたい。
先月、徳島に帰ったときに、「野球、おもろいか?」って訊いてみました。
そしたら目を輝かせて、「うん!」
でも、現実はちょっと厳しく、今の小6のメンバーがやめてしまうと、息子を含めて、たった3人になってしまい、チームの存続が危ぶまれているのです。
野球部への勧誘はみんなで頑張ってはいるのですが、過疎化が進む我が町の小学生の絶対数が少なすぎる!というのが現実。
となりまちの少年野球に合流するか?
それとも、休部か廃部か?
という話がチラホラ出ており、親としては、好きだったらなんとか続けさせてやりたいなと色々と思いを巡らせているところです。
少年野球と言えば、私も小学4年生から野球を始めました。
でも、修行のように辛い練習はいやだったなぁ。。
特に四国の夏は暑く、炎天下、よくぞ倒れなかったなと思うくらい厳しい練習の日々。
今では考えられないことですが、練習中は一滴も水を飲んだらダメで、練習の最後、「ありがとうございましたー!」と帽子を取ってあいさつをすると同時に、水道の蛇口にみんなでまっしぐら。
お腹たっぽんたっぽんになるまでがぶがぶ飲んだのが昨日のことのように思い出されます。
そんな中、台風や大雨で、「今日の練習は中止!」なんていう連絡が来たら、飛び跳ねて喜んでいました。
当時、いつも思っていました。
もっと明るく楽しく練習しながらも、技術や体力、そして精神力が身につく練習方法はないものかと。
でも、よく考えてみれば、人生もそうですね。
80年そこそこの人生、どうせ生きるんだったら、修行のような人生ではなく、明るく楽しく行きたいものだなと。
そんなことを考えていたら、昔読んだ小林正観著『もうひとつの幸せ論』を思い出したので、そこから引用してみます。
「修行することが目的である以上、人生には苦しみが多くて当然だ」
「人生は、辛く悲しいものの集積である」
と考える人がいます。
「目の前の出来事は全て『修行』のために存在している。悩みがあるのは当たり前だ。だからこそ、立ち向かったり、我慢や忍耐をしたり、乗り越えたりしなければいけない」
そう考えることで、もしあなた自身が生き方がラクになるのであれば、「人生=修行」ととらえても、別にかまわないでしょう。
ただ、「宇宙の構造」は違います。人生は「修行の場」として設定されている訳ではありません。
<中略>
人生は、「喜ばれるための場」であり、「感謝をする場」であり、なによりも、「楽しむため」に存在しています。
「人生は苦しみに満ちている人と悲嘆にくれてばかりの人」や、「不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句ばかりの人」に比べれば、人生を「修行の場」と位置付け、「乗り越えていくしかない」「我慢するしかない」と考えている人のほうが、まだ一歩も二歩も前進していると思います。
でも、それではまだ、「途中の段階」。
私たちが「肉体を持ってこの世に生まれてきた理由」は、「人生を楽しむため」にほかなりません。
現象はすべて「ゼロ(中立)」です。どのようにとらえるかは、結局のところ、あなた次第。
土曜日の昨日、朝から70過ぎの大先輩のお見舞いに行ってきました。
その先輩は、先週の金曜日、心不全で救急車で運ばれたそうで、あと10分処置が遅れていたら、助からなかったかもしれなかったとのこと。
糖尿病も患っており、体にはたくさんの管がついていましたが、病室に入っていったとき、にっこりと微笑んでくださったので、少し安心しました。
そして、読んでいた本の内容に触れながら、「今度元気になったら、ここに行ってみようと思ってるんだ」と目を輝かせていたのには感動すら覚えました。
楽しく生きるって、こういうことなんだなぁって。
以前の投稿「7つの豊かさ・その1【夢】」で紹介した徳島の「いろどり」という会社。
商品は、高級日本料理などにツマとして使うモミジなどの葉っぱ。
そこで働くある86歳のおばあちゃんが、モミジの苗木を植えながら、「5年後にこのモミジがきれいに色づいているのを見るのが夢なんじゃ」という言葉がとても印象的でした。
先ほど引用した文にもありましたが、
日々、私たちの身にに起こる出来事はすべて現象。
そしてその現象はすべて「ゼロ(中立)」。
どのようにとらえるかは、自分次第。
人生を苦しい修行の場ととらえるのか、それとも喜ばれるための場、感謝をする場、楽しむ場ととらえるか、それは、、確かに自分次第なんですよね。
同じ現象をどう受けとめるかによって、私自身の感情の動きが違ってくるのであれば、どうせだったら楽しく生きていきたいものです。
幼年期、学生時代、就職、結婚、病気、事故、愛する人の死、、
様々な人と出会い、様々な出来事に遭遇しながら送る我が人生。
結局のところ、私たちの人生は、心の成長、魂の成長のためにあるのだと思います。
人に優しくなれるのは、その苦しみや悲しみを知っているから。
人に寛大になれるのは、その心の動きを経験したことがあるから。
人を愛することができるのは、誰かに愛されていることを実感しているから。
『もうひとつの幸せ論』にはさらにこう書いてあります。
今思い出しましたが、先ほどの「いろどり」という会社を紹介していたテレビのインタビューで、おばあちゃんが言っていました。
「こうやっておばあちゃんにも仕事があるということは、有り難いことです」と。
日々起きてくる現象をすべて感謝として受容できる人生。
それはもう怖いものなし人生観。
良いとこ取りの人生哲学、究極の言葉は「感謝」だなとしみじみと感じる日曜の朝でした。
今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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さな爺、おはよう。
久しぶりにさな爺らしい
ブログを読んだな〜という感じです。
それは、わたしの考えていることと
シンクロしているという意味で。
>日々、私たちの身にに起こる出来事はすべて現象。
現象を、単なる現象としてそのまま受け止める。
その時にわき起こった感情は、
ああ、自分はそんな風に感じているんだな…と眺めていると
やがて、静まり消えて行く。
>人生は、心の成長、魂の成長のためにある。
愛そのものである完全なる魂が、
その正反対である不完全なものを知りたくて
産まれてくる親を選び、
学びのための
さまざまな困難を用意したストーリーを創って
この世に肉体を持って生まれてきた…。
最近、そんな風に感じています。
だから、苦しいことがやってきても、
わくわくしながら、乗り越えることができる。
これが知りたかったことなのだと思って。
足りないものを数えるのではなく、
持っているもの、そこにあるものを見て、
起こってくることを眺めると
自然と感謝の気持ちに溢れてくるようになりました。
この地球上に生命を持っていることが奇跡なのだ…
そんな境地です。
さな爺、また深い気づきに満ちたブログを書いてね。
楽しみにしています。
じゅんこさん、コメント、ありがとうございます♪
共感していただけて嬉しいです^^
私たちの身に起こる外界での出来事はすべて現象!
と気づいたときには、本当に肩の荷が下りた気がしました。
あとはその現象をどう認識するかで、私自身の感情はいかようにも変わる、というか、変えられるということですよね。
その現象のすべてが私自身の心と魂の成長のためにあると考えると、感謝以外の何ものでもないなと。
病気にしても身近な人の訃報にしても。。
そして、じゅんこさんが最後におっしゃったように、この地球上に生命を持って生きいているころが奇跡!
なんですよね。
天空から落ちてくる一しずくの雨粒のように始まった私たちの人生は、様々な路程を通過しながら、大海に流れ着き、また雲になるために昇天していく。。
嗚呼、楽しきかな我が人生。
そんな感じです^^v