今日の東京は朝から雨。
こういう時は、椅子に座ってゆっくり読書なんぞ、最高ですね。
雨の音を聴きながら、ふと頭をよぎった幼い頃の想い出。。
この時期は、庭でよくカタツムリやナメクジを観察していました。
のっそり動く不思議な生き物。
足がないのにどうやって動いているんだろう?
角は何の役割があるんだろう?
と、雨の中小さな黄色い傘を差しながら、1時間も2時間も観察していた記憶があります。
そして、雨、特に大雨による大水が出たとき、とても楽しい出来事が起こります。
家の前の水田の側溝がナマズやウナギやフナであふれかえるのです。
2歳下の弟とよく魚を捕って遊んだものです。
今日は朝からRaindrops Keep Falling On MY Head(邦題:雨に濡れても)を聴きながらちょっとノスタルジックな世界に浸ったのでした。
さて、話はガラリと変わりますが、今回も前回に引き続き、健康に関する投稿です。
前回の投稿は、要するに「健康」の反対語が「病気」ではないというお話でした。
そこで紹介した書籍『自分を育てる』には健康に対する二つの考え方について書いてあります。
早速引用してみます。
一方、一元的健康観が考える健康増進とは、より高い健康状態を追求すること、健康に近づいていくことである。
健康増進という言葉のベクトルはまったく正反対を向いている。前者は病気のほうを向いた健康増進であり、後者は高い健康状態のほうを向いた健康増進である。
たしかに、実際に生活の中で行う「健康増進」の方法は、どちらの健康観に立とうと共通したことも多い。それは、タバコを減らすとか、野菜を増やすとか、睡眠時間を充分にとるといったことである。
しかし、健康観が異なれば、その実行の意味は大いに異なる。前者にとってタバコをやめることは未来の健康増進のための手段であるが、後者にとっては現在の健康増進が実現した結果でそうなる。そして、タバコをやめることはつらいことと受け取るか、タバコが不必要になったらうれしいと感じるかの差が、私たちの心の中に生まれる。
前者は健康のときこそ病気のことを考えて、万一に備える健康観、未来の病気を予防するために現在を生きる健康観である。具体的には自分の欲求を未来のために一時抑えつけなければならない、節制を美徳とする健康観である。
一方、後者は健康のときは病気のことは考えないで、健康のときこそ本当の健康を考える健康観であり、現在の中に健康を実現する、現在を生きる健康観である。具体的には自分の欲求を正確に感じ、それをその場で実現していくことを目標とする健康観である。
言い替えれば、二つの健康観の違いは、未来で生きることを目標とする健康観であるか、現在に生きることを目標とする健康観であるか、の違いである。
未来は現在の中では実現されないが、現在はその中で完成される。
未来の健康のために、今から準備するのはとても重要なことです。
「今を楽しく」という言葉は、すごく心地よく聞こえますが、一歩間違えれば、「今さえ良ければいい」という刹那主義的な考え方になってしまいます。
でも、病気にならないために、健康な今を犠牲にするという考え方よりは、より健康になるために、今を楽しむほうがいいに決まっています。
つまり、病気であろうがなかろうが、今よりさらに健康になるための日々の営みであることのほうが楽しいですよね。
同書からもう少し。
したがって、治療はこれらの侵入物・異物を除去することが、第一の目標となる。具体的には抗生物質による細菌の除去、抗ガン薬や外科手術などによるガン細胞の除去や、食事改善、生活指導による過剰な食塩、カロリーの除去などである。あるいは、体の一部であっても病気で悪くなったところは手術で切り取る。
これは健康な生命体が異物の侵入を受け、病気が発生するという受動的な生命観である。生命体は静止、固定しており、異物が活発に動く。
それに対し、一元健康観は、侵入者よりも生命体そのものに注目する。生命体は自分にとって有害な異物を受けつけず、侵入したものを排除する機能を有している。だから、生命は本来は病気にならない機構を備えているが、これが充分に機能しないときに病気になると考える。健康な免疫機構は細菌、ウイルスの侵入を許さず、ガン細胞を除去する。健康な食欲は過剰な食塩やカロリーを受けつけない。健康な心身が育ちつつあるとき、ニコチンやストレスは自然に避けられるのである。
これは生命はつねに自分を守り、自分の要求を成就するために動いており、異物・侵入者を排除するという、生命体にとって能動的な健康観である。
私が健康を考えるとき、いつも年頭に置いているのは、「自然治癒力」まさにこの部分です。
もちろん、薬は即効性があるし、今でも毎日一錠ずつお世話になっています。
でも、できれば薬やサプリメントの必要のない生活が望ましいと思っています。
人間に限らず、動物や植物も自分の体を守ろうとする免疫機能は、知れば知るほどうまくできているなぁと感心します。
去年投稿した記事「奇跡のリンゴは宇宙の法則によって」で紹介した書籍『奇跡のリンゴ』から引用してみます。
木村は、一枚の葉を手にしていた。確かに葉の中央に穴があいている。虫に食われたのだろうか。そう言うと、木村は嬉しそうに首を横に振った。
「違うの。これはリンゴが自分で開けた穴なの。いや私も最初は虫かなと思って見過ごしていたんだ。だけど、どうもこんな葉の喰い方をする虫はいない。長年、不思議には思っていたんだけどもな。ある時、この穴のあいた葉っぱのそばに、斑点落葉病特有の茶色い病斑がついた葉を見つけたのな。あれっ、と思った。それで、カラカラに乾燥していった。葉っぱがそこだけ水分の供給を絶って、病気を兵糧攻めにしているみたいに見えたな。そのうち、病斑部がぽろりと落ちて、穴があいたというわけだ。それだけではないんだよ。この穴があいてから、葉っぱの横についている小さな葉がどんどん大きくなっていったの。葉っぱを失った分を、補っているわけだ。スケールで計ったんだけど、穴の大きさと葉っぱが大きくなった分がほぼ同じであったな。穴がもっともっとたくさんあいて、それでは補えなくなると、今度は枝の先に新しい葉っぱを出すんだよ。畑に堆肥をやっていた頃は、病気になってもこんな穴は出来ていなかった。この畑にはぎりぎりの栄養しかないから、リンゴの木が元々持っていた自然の力が引き出されたんだと思うのな。知れば知るほどよ、自然というももはすごいものだと思う。」
また、こんな言葉があります。
ヘンリー・シゲリスト アメリカ人医師 1951年
病気の動物は奥まった場所にひっこんで、回復するまで断食する。断食中はわずかな水と薬草を摂るが、祖先から受け継いだ知恵で本能的に薬草の探し方がわかる。
ジュリエット・ドゥ・ペラクリ・レヴィ ヨーロッパ人の伝統的薬草医 1984年
ゾウが病気になると、ゾウ使いはゾウを森につれていく、そこでゾウは必要な薬草や植物をつまむ。なぜか彼らは自分自身の薬を処方できるのだ。
デネッシュ・チョードリー インド人の像猟師 2000年
以上、『動物たちの自然健康法』より
体が調子が悪いとき、それは「少し休みなさい」というサイン。
お腹が痛いとき、それは「良くないものを食べちゃったよ」というサイン。
目がしょぼしょぼになったとき、それは「眠ったほうがいいよ」というサイン。
もちろん、自然のままに生きるということはそう簡単ではありませんが、自分の中の免疫機能や自然治癒の力が働いているから、症状として訴えてくれているわけです。
それを無視し続けることは、せっかく教えてくれている体に対してとても失礼なことだなぁって思います。
特に梅雨時は体調を崩している人がたくさんいます。
無理はしないで自然体。
でも、能動的に!
今よりさらに健康になるためにはどうすればいいか?!
これを考えてみようと思う今日この頃。
というか、実は答えはもう既に自分の中にあるんですよね。
「こうすればもっと健康になる」という答えは。
あとは習慣化しながら実行するだけ!
サナギのフロー「s・a・n・a・g・i」でいうと、
想像(Imagination)編
私自身を知ること
私自身を受け入れること
私自身を変えること
創造(Creation)編
私自身を動かすこと
私自身を生かすこと
私自身を解き放つこと
今よりさらに健康になる
このキーワードは、習慣と実行!
と自分に言い聞かせる、土曜日の朝でした。
さ、能動的に動くぞ!
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