満員電車、行きつけの食堂、お弁当屋さん、、
街にはいつもの日常が戻ってきて、お正月の雰囲気から一気に動き出したような感じです。
さて、昨日の投稿「志・誠・夢:田舎暮らしの東京お仕事」で、
志を高くもち、
誠を尽くしながら、
夢に向かって行こう!
という話をしたばかりですが、奇しくも今日開いた月刊誌『致知』2月号の特集が「立志照隅」つまり「志」にスポットを当てたものでした。
その中に、教育者であり哲学者の森信三氏著『修身教授録』からの引用がありましたので、紹介します。
※【酔生夢死】《「程子語録」から》酒に酔ったような、また夢を見ているような心地で、なすところもなくぼんやりと一生を終わること。
人生観や考え方は人それぞれですが、私は、小さい頃から、どうせ人生を歩むなら、公孫たちにもわかるような足跡を残したいなと考えていました。
いや、足跡じゃなくてもいいです。
爪痕でも残してからこの世を去りたいなと。
別にそれを誇示したいとか、名声を得たいとかではなく。
そのためには、自分や家族のためだけに歩んでいてはいかんと考えてきました。
自分にとってもやり甲斐があり、家族も幸福にし、さらに世のためになるようなことを為したいなと。
ちょうど野心と志の違いを述べた箇所があったので、引用します。
(中略)
そもそも真の志とは、自分の心の奥底に潜在しつつ、つねにその年頭に現れて、自己を導き、自己を激励するものでなければならぬ。
※【畢竟】さまざまな経過を経ても最終的な結論としては。つまるところ。結局。
本当の志は、自分の心の中に潜在しているという点、うなずけます。
何がしたいのか、どう在りたいのか、というのは自分自身に訊いていくと浮かび上がってくるものです。
以前の投稿「自覚:Have・Do・Beで夢探し」でも書きましたが、自分は何がしたいのか側かららないときは、
①欲しくないもの
②したくないこと
③なりたくない姿
をリストアップしても見えてくるはずです。
いずれにせよ、まだまだ年のはじめ!
今年一年を酔生夢死で終わらせないために、「野心」ではなく「志」を明確にして歩んで行きたいものですね。
最後に「立志照隅」の意味を引用します。
志を立て、自分のいる場所を照らす、換言すれば、その場になくてはならぬ人になる、ということである。もっとも身近な自分のいる場とは、自分という場にほかならない。