朝晩めっきり涼しくなってきました。
私の周りにもけっこう風邪引きさんが増えています。
そういう私も昨晩から窓を開けっ放しで寝てしまったせいか、朝方喉の痛みがあったので、40分ほど半身浴をして握りつぶしました。
昼夜の気温差が激しい季節は、お風呂で温まるに限ります。
汗と一緒に毒素を出し、内臓を温め、免疫力を高めるのが一番ですね。
さて、今日は「理解してから理解される」というお話。
これは、週間ダイヤモンドでも取り上げられた『7つの習慣』の第5の習慣に当たります。
前々回の投稿「Win-Win:豊かさマインドと欠乏マインド」は第4の習慣。
第5の習慣「理解してから理解される」は、簡単にいってしまえば、人とのコミュニケーションの極意です。
私たちは関係性を無視しては生きていけません。
人と人との関係性はもちろんのこと、人と地球、人と環境、、
この関係性を上手く維持していく手段として「コミュニケーション」があります。
「コミュニケーションって大事」でも書きましたが、いくらコミュニケーションの技術があっても、そこに愛や人格が伴わなければ、ただのシステムやマシーンになってしまいます。
その辺の内容を『7つの習慣』から引用してみます。
コミュニケーションは、人生における最も大切なスキルである。私たちは、起きている時間の大半を、何らかのコミュニケーションの活動に費やしている。学校では長い年月をかけて文章を読むこと、書くこと、話すことを勉強するが、聞くことについてはどうだろうか。相手の見地に立って、相手を深く理解するために、どういう教育、どういう訓練を、あなたは今までに受けてきただろうか。
聞く訓練を受けたことのある人は、極めて少ない。また、たとえ訓練を受けたことがあったとしても、そのほとんどが個性主義のテクニックであり、誠心誠意にほかの人を理解するのに必要不可欠な人格と人間関係の土台からは、切り離されたものだろう。
自分の夫・妻、隣人、上司、同僚、友人と効果的に接し、相手に影響を与えたければ、まずその人を理解する必要がある。それはテクニックだけでできるものではない。あなたが何らかのテクニックを使っていると感じれば、相手はあなたには二面性があり、自分のことを探ろうとしていると感じるに違いない。そして、あなたが何のねらいでそうしているのか、動機は何なのかを疑問に思うようになる。自分の本当の考えを安心して打ち明けることはできなくなるだろう。
(中略)
「理解してから理解される」ことには、大きなパラダイム転換が必要である。話をしているとき、ほとんどの人は、理解しようとして聞いているのではなく、答えようとして聞いているのだ。話しているか、話す準備をしているか、二つにひとつである。聞いている話しをすべて、自分のパラダイムというフィルターを通して、自分の自叙伝を相手の生活に映し出しているだけである。例えば、「そうだ、そうだ。気持ちはよくわかるよ」とか、「私も同じ経験をしたんだよ。それはね……」といった具合である。
このような人々は、自分のホームビデオをほかの人の生活に映写している。接するすべての人々に、自分がかけている眼鏡をかけさせようとする。
人間関係(夫・妻、息子、娘、従業員との間など)において問題が発生すると、そういう人たちは、決まって「相手が理解していない」という言葉で表現する。
結婚した当時、なかなか妻のことが理解できなかったのを覚えています。
今から考えると、自分のことを理解してほしいと思って、一方的に私ばかり話していたように思います。
たくさん話したので、理解してくれているだろうと思いつつ何かの成果を期待しながら待っていても、いっこうに期待通りの結果にならないのです。
私はだんだんフラストレーションが溜まっていき、一人プンプンするという感じ。
しかも妻は私がなぜ怒っているかがわからないという状況。
そこで、このままじゃイカン!と思い、その時点での関係を客観的に見つめてみて、初めて気づいたのです。
自分のことを「理解してほしい」という思いが強すぎたってことに。
それからというもの、妻の話に耳を傾けました。
小さい頃いじめに遭ってたこと、得意なこと、将来のこと、今日一日あったこと、、
理解しようと努力し始めてはじめて、本当のコミュニケーションが始まったと思いました。
それぞれ、生きてきた環境も歴史も全く違う人同士が一つ屋根の下で暮らし始めるのですから、お互いに理解し合わないと、すれ違いや衝突が生じるのも当然ですよね。
この時よくわかったのが、
私は思い立ったらすぐに行動し、結論を急ごうとする性格で、
妻は何かを思い立っても、よーく吟味、反芻したうえで、石橋を叩いて行動に移すタイプだってことでした。
こういう関係は親子でも、職場でも、近所付き合いでも同じです。
当時、貿易商社で働いていた私は、この気付きによって、上司や部下、同僚、さらには業者さんとのコミュニケーションが格段に向上したのを覚えています。
それぞれの人間関係において、その相手の歴史や考えていること、行動パターンをよく見、受容し、理解してはじめて、同じ「場」に立てるんですね。
もう少し同書から引用してみます。
人と接するとき、独善的であったり、自分の自叙伝を押しつけたりしている。どちらもお互いに理解されたいと思っている。しかし、会話は独り言を言っている者同士で展開し、相手の中で何が起きているのか、最後まで本当に理解することができない。
相手が話しているとき、ほとんどの場合、私たちは次の四つのいずれかのレベルで聞いている。
まず無視する、あるいは実際に聞いていない。次は、聞くふりをする。例えば、「うんうん」とあいづちを打つという具合である。そして、選択的に聞く。これは会話の部分部分しか耳に入れようとしない。三、四歳の子供の話を聞くときなど、こうしていることが多いだろう。それから、注意して聞くこともある。このレベルになると、注意深く集中して相手の言葉を聞くようになる。
ほとんどの場合、この四つのいずれかで聞いている。しかし、この上の最も高い傾聴のレベル、感情移入をして相手の話を聞く人は少ない。
ここでいう感情移入は、“積極的な傾聴”とか“反映的な傾聴”で、単に相手の言葉をオウム返しに繰り返すテクニックのことではない。そういう傾聴は、スキル中心で、人格と人間関係の土台から切り離されたものであり、かえって相手にとっては侮辱となるだろう。それも、基本的には自叙伝的な聞き方となる。それは、実際に自叙伝を口にしていないとしても、聞く動機が自叙伝的なものだからだ。反映的なスキルで聞いてはいるが、それは答えること、相手をコントロールすること、操ることが動機になっているのである。
本当の感情移入は、心の底から理解するつもりで聞くことであり、まず相手を理解しようと務めることである。これは、全く違うパラダイムなのだ。
感情移入とは、相手の見地に立ち、相手の立場から物事を眺め、相手が見ている世界を見ることであり、相手のパラダイムを理解し、相手の気持ちを感じとることなのだ。
この「感情移入の傾聴」って大事ですよね。単なる同情とは次元が違い、「その人の感情が今どういうものであるか」「それが私の場合だったらどう考えるだろうか」と、その人を感情的にも知的にも深く理解するということです。
週間ダイヤモンドの特集にも書いてありましたが、この、人の話に「傾聴する」の「聴」という字は耳と目と心の組合せだから、これらをフル活用して相手の話を聴くってことなんですね。
人は人数分だけ、価値観があるし、考え方も違います。この「感情移入の傾聴」が習慣化されてくると、その価値観や考え方の相違点を認め、尊重するようになり、それぞれの人間関係において、信頼関係がぐぐぐーんっと深まります。
そうなれば、よりよい第三案を生み出すことができるようになるし、その波紋が周囲の人たちに広がっていくようになりのです。
たった二人の個人レベルから、会社組織、そして国家間の世界レベルまで、この原則は通用するはずです。
てなことを考えながら、そろそろお腹がグーグー鳴り始めた日曜の昼下がり。。
理想と現実との間で、葛藤の日々もあったりしますが、こんなことを考えていると、人間っていいな!人間って可能性は無限大だし、みんながもっともっと幸せに暮らせる社会になるはずだ!なんて思うのでした。
他者を理解するということーわたしはこの問題について、長い間考え続けています。
人間関係における数々の葛藤は、すべてこの問題につながっている。
他人を変えることはできないので、自分を変えること、
すなわち自分の視点を変えて、違った角度からその人を観ることで
違うアプローチをし関係性を変える…という方法など、いろいろ試してみました。
理解しよう、理解したいという好意的な状況がある場合は、比較的簡単ですが
相手が敵意を抱いている、もしくは最初から先入観にとらわれている場合は
どうすればよいのか?
誤解を解き、理解してもらえるまで、言葉を尽くして説明する、
自分の考え方を行動でもってしめす、
その人が信頼している人を口を借りて、擁護してもらう…
全て試しましたが、うまくいった場合もあるし、
努力すればする程状況が悪化したりということも、しばしば。
落ち込みました。
所詮ひとは、自分の頭で理解できる範囲、自分の価値観に立ってしか、
物事を考えることができない。これは動かしようのない事実です。
経験したことのない喜びも痛みもわからないのだと思います。
もちろん、ある程度想像することはできる。
でもその想像力は、寄り添って共感しようという意志がなげれば働きません。
感情移入して、果たして真に相手の見ている世界を見ることができるのか?
大きな課題です。
これを克服しなければ、先へは進めない。
たぶん、会社で起こる小さな諍いや
世界中で長年くすぶり続けている紛争の解決方法を探すことと同義でしょう。
むつかしい問題です。
さな爺はどのように考えますか?
Junkoさん、いつもありがとうございます。
核心を突く鋭いコメント、感謝です。
「他者を理解する」って確かにそう簡単な話じゃないですよね。
私も色んなシチュエーションで、Junkoさんと同じように、さまざまなパターンの行動を試してみた記憶があります。
中にはとても反応的で、私の言葉の端をつまみあげてはそれにけちをつけ、ケンカを売ってくる人もいました。
また、日本人同士だけだとまだいいのですが、外国人とのプロジェクトなどは、民族性や言葉が違うので、ますます理解しづらい点があったし、ちょっとしたことが誤解を招き、けっこう大きな問題になったこともありました。
私も、こういう人間関係の出来事一つひとつに反応し、くたくたになったときがあります。
でも、よく考えてみたら、自分自身を取り巻く環境は、自分が創り上げた宇宙なんですよね。自分が引き寄せた環境であり、自分の思考やその末の選択が招いた結果。
なので、それを一旦丸のまま受け入れてみたんです。
それまでは、
「こんなはずじゃなかった!」
「自分の人生、これでいいのか!」
なんて、自分や環境を恨んだりしてましたが、すべてを受け入れてしまったとたんに、自分が創り上げた宇宙が変わっていくんです。
それが「s・a・n・a・g・i」で言うところの、
【自覚】s:self-awareness
【受容】a:acceptance
【習慣】n:new habits
【実行】a:action
【成長】g:growth
【自立】i:independence
上から2つめの「受容」だと思います。
この「受容」に関しては、以前の投稿
「受容:すべてを受け入れるということ」
「人生の意味を見つけるための逆説の10カ条」
「ゆるすということ」
「少しは傷つく覚悟をもつ」
等を参考にしてくださればと思います。
こうじゃなきゃいけないとか、
こうすれば解決できる、
という回答でなくてすみません。
でも、これがそれぞれにとっての「良いとこ取りの人生哲学」のコンセプトかなって思っています。
奇しくもことりちゃんが今朝方コメントしてくれた内容にもたくさんのヒントがあると思います。
私自身もJunkoさんとことりちゃんからたくさんの気付きやインスピレーションをもらっています。
本当にいつもありがとうございます。
お兄ちゃん^^
さっき、店長さんの記事のところにコメント書いてきたよー。
理解して理解されること。
さっきと違う側面から考える機会をくれてありがとう^^
人は他人に受け入れられることなしに
自分を受け入れることはできないね。
きっと、他人に向かって感情をむき出しにする人は
自分自身を受け入れられないでいるのでしょう。
ならば、私はその人のありのままを受け入れようと思います。
怒りも悲しみも不安も喜びも。
自分のことは、いったん脇へ置いておいてもいいのです。
ちょっと置いておくだけなので、あとでいつでも取り戻せます。
これが傾聴するときのポイントかなって思ってる。
全部理解することは、きっと不可能。
経験と感情を共にしなければならないから。
だけど、理解したいという気持ちは伝わるよね。
私は、そうして聞いてもらえただけで、心があたたかくなりました^^
相手の気持ちは私の中で擬似体験となる。
自分の価値観と照らし合わせるのは、それからでもいいよね。
そうすると、こちらに向けられた怒りからも
その中にあるやりきれない悲しみを感じることができる。
未熟な怒りならば、気然とした態度で愛情を示せばいい。
相手にその真意が理解できるまでに時間がかかるかもしれないけど、
それはそれで仕方ないよね。
すべて、その人の時間なのだから。
理解したあとは、受容するための葛藤や摩擦が待っている。
理解と受容を、同時に、または同様に捉えてしまうことから
解決できない問題へと発展してしまうことがよくあるよね。
理解には、時間のかかる受容が含まれていることを忘れないようにしたい。
人格や、共同体の未熟度と関係が深いから。
次に必要なのは
受容するのと同時に手放すことかな。
これは矛盾してるけれど、とても大切だと思うの。
自分と相手を認めて信頼していなければできない。
手放すことって、
互いがそれぞれのフィールドで、経験したり成長するのを信頼して待つことだもの。
相手を理解することは、自分を信じることでもあるのかもしれないね。
その中を何度もいったりきたりして。
そうして、信頼も自信も考え方も安定していくのね。
だから、時間もかかるしとても大変なんだけど、
好転したときは、ほんとうにうれしいよね!
ダメだった時は、可能性を保留したまま放流しちゃう。
どうこうできない問題もあると諦めることは
エゴを捨てるために大切なことだもん。
そうして放流したものは、いつか鮭になって戻ってくるんだよねー^^
クマとか鷲に狙われませんようにって思えばいい。
前は稚魚だったから、今度会うときはもう面影がないかもしれない。
全然別の人や形になって現れることもあったりして。
だから、楽しみだね。
いま私がお仕事で向き合っていることも、とても大変で
荷が重すぎると感じていた。
でも、だんだんと私が関わる意味が見えてきた。
理解して受容されること。
これは、甘い理想論なんかじゃない。
覚悟が必要ね。
たぶん、体験して苦労した人ほど
この意味が分かるのだと思うの。
だから、お兄ちゃんを尊敬する。
いつも、たくさんのヒントを助けをくれてありがとう。
とっても感謝しています。
そして、Junちゃん^^
お互いに違う場所で違う問題と取り組んでいるけれど、きっとテーマは同じね。
時間がかかるかもしれない。
私が問題に向き合うとき、Junちゃんも同じなのだと思いを馳せているよ。
いつになるか分からないけれど、
いま学んだことを、一緒に語れるようになりたいね。
応援しています。
あらら?
またまたお兄ちゃんのBlogより長くなっちゃったかな^^えへ
ことりちゃん、おはよう。
実体験からくるコメントの一つひとつにうなずきながら読んだよ。
特に「理解には時間のかかる受容が含まれている」
という部分は、うなずきすぎて首が痛くなったくらい!^^
ことりちゃんが言うように、受容ということなしに自分自身も含めて人を理解することはできないよね。
ましてや、怒りやマイナス的な思いが強い人であればあるほど、特にそうだよね。
現在の医療現場では「感情移入の傾聴」はなかなか難しいかもしれないし、それをしてたらなりたたないという現状はあるだろうね。
私も自分自身や家族の病気で病院に関わってるけど、大きな病院であればあるほど、システマティックに処理されていくのを感じるよ。
もちろん中には、親身になって話を聞いてくれる先生もいて、それだけで救われた気がしたこともあるよ。
将来的には、そういう心の通った医療施設がたくさんできるといいね。
心と体、両方のケアがバランスよくできるような。。
「受容すると同時に手放す」って表現もすごくわかるよ。
受容するってことは、こだわりを捨てるってことだから、矛盾しているようで、大変理にかなってる言葉だよね。
それを鮭の話で表現してくれて、とてもわかりやすかった。
以前の投稿「ゆるすということ」
でも書いたけど、ゆるせない(受容できない)ってことは、自分で自分を鳥かごに入れてしまうようなもの。
そのこだわりを捨てた瞬間に鳥かごは取り除かれて、自由になるんだよね。
ことりちゃんへの返信に鳥かごが出てきたのは、偶然だけど^^、
今回もコメント欄を賑わせてくれてありがとう。
毎日、生命と向き合う医療現場でのお仕事、大変だと思うけど、私も応援しています。
いつも、ありがとう。
お兄ちゃん。
首が痛くなるくらい共感してくれてありがとう^^
もみもみ(笑
私も鳥かごのお話に、首が痛くなるくらいうなずいたの^^
ほんとうにそうだよね。
感情移入の傾聴は、出来ていると思うと思い上がりの自己満足になっちゃうし
だからといって、しなくていいということにはならないよね。
その2つの相反するものを自分の中で自覚していることが大切なのね。
今日は、あの時は、あの人とは、ちゃんと向き合えたの?って
いつまでも自分に問い続けていかなければならない。
それが私の仕事の大切な一部分だと思ってる。
いそがしくても、ひと声かけたり。
それは思い遣りというよりも、患者さんに我慢をお願いしているのかもしれない。
けれど、医療者と患者さんはその関係性の中でコミュミケーションをとるしかないのだから
医療者としてできる限りの最善をやるしかないのね。
お仕事をしている人はみんなそうだよね。
個人としてではなく、仕事人として最善であるために
いろんなことを考えて行動する。
だからこそ、相手もその関係性の中でどうしたらいいのか考えられる。
今日はそんなことを考えた一日でした。
Junちゃん^^
昨日は受容のことばかり書いたけれど
自分の身を守るための攻撃がいちばん怖くて、
自分が何をしているかさえ分からないほど激しいものだと思うの。
防衛するための攻撃は
隙あらば欠点や落ち度を探してそれを攻撃の理由にしてくる。
そういうものは受容してはいけない。
相手が何を根源に持っているのか理解するだけでいいよ。
洞察力をもって見極めることも大切なんだよね。