悩みの正体を分析してみる

今日の東京はこの秋一番の冷え込みと同時に、冷たい雨がしとしとと降ったり止んだり、そんな一日でした。

そんなこんなで、もう一年をふりかえるような時期になりましたね。
色々ありましたが、2010年もまだ40日以上も残っているので、まだまだ前を向いて、年末までにやりたいことをやり尽くしたい!そんなことを思う今日この頃。

単身赴任で、しかも4人の子どもを抱えるオヤジとしては、色んな心配事や悩み事はあるけれど、この一年間けっこう明るくやってこれたし、これからも頑張ろうって握り拳を固めるのでした。
ありゃ、結局一年をふりかえってしまいました。。

さて、「悩み」と言えば、今回のブログのタイトルは「悩みの正体を分析してみる」、
といっても私は心理学者でもその筋の専門家でもないので、軽いタッチで考察してみたいと思います。

私たちは、朝起きてから夜寝るまで、習慣化されたお決まりの行動以外の出来事が起きると、悩みます。下手すれば夢の中まで悩み事を抱えてたりすることがあるほどです。

よーく観察してみると、人は本能だけで生きているわけではないので、何かを決断する時や、いずれかを選択する場合、あるいはミスを犯してしまったときなどにたくさん悩んでいるようです。

最近、古本屋さんで見つけた書籍『人はなぜ悩むのか』の中に興味深い箇所があったので引用してみます。

「不安・恐怖─苦痛─生体の反応」は、猿や犬や猫など、人間以外の哺乳類の間にも共通した反応をおこす。しかし、猿や犬は生体に苦痛を感じても、それを心の悩みにすることはない。彼らはその苦痛を自己の劣等感にしたり、自己の悩みにしたりすることはない。それは、不安・恐怖を苦痛とする自己を、ことさらに省みることがないからであり、他者と自己を比較して自己省察をすることがないからである。つまり、人間は自分がどのように生きているのかということを、現に在る自分と距離を置いた“第三の眼”で見ながら生きているのである。

(中略)

第三の眼は自分自身の生きかたをふりかえり、確かめる眼なのである。このふりかえりによって、人間は他の諸動物とは異なって、自分を自己批判し、悪い点を正し、よりよい生きかた、より美しい生きかた、より清らかな生きかたを獲得しようとする。

ところが現実での人間生活はどうであろうか。自分が希望し、理想とするような生きかたはなかなか得られるものではない。そこで、人間の心には悩みがおこるのである。

こう考えてみると、人間の悩みは、単に不安や恐怖のように心理学的・生理学的な苦痛ではなく、倫理的・哲学的苦痛なのであり、自らの生きかたをひたすらに省みながら生きる人間特有の現象だと考えられるのである。

 

どうやら「悩む」ということは、他の動物たちとは違う、人間だけの特性のようですね。
でも、この「悩む」ということがとても重要なのです。

もう少し同書から。

人間の存在に悩みが不可欠だとすると、悩みは人間にとって、どのように作用するのであろうか。

これまでにわれわれは、悩みが劣等感や神経症をつくり出す可能性、つまり人間にとってのマイナスな側面について論じてきた。悩みはマイナスな側面にのみ影響を与えるのではなく、プラスの側面にも役立てることのできる可能性をもっているのである。

たとえば、前述した野口英世のように、劣等感に対する悩みを自己発展の努力へと結びつけて役立てることもできようし、自己の存在を深く見つめ、洞察を深めるのに役立てることもできる。そればかりではなく、人間の苦悩が創造性へとつながっていく場合もあるのである。

 

「悩む」ということは、まさに「哲学する」ということです。

劣等感や敗北感などの苦悩を、創造性へと発展させていくことができるという話です。
そしてその秘められたエネルギーは、劣等感や敗北感などを味わったことのない人より大きなものかもしれません。

身体的特徴、思春期、学校、人間関係、経済、結婚生活、子育て、老後、、さまざまな悩みは挙げればキリがありません。

また、親が子に対して、「そんなことでくよくよ悩むなー」と叱りつける場面を見たりしますが、私はそれは逆だと思っています。
小さい頃からたくさん悩み、たくさん考えたほうが、もっともっと思考が柔軟になるし、物事を見定めるときに、より良い結論を導き出すことができる耕された脳になっているはずです。

さて、悩むことはとっても良いことだということはわかりました。
ここで、悩みは悩みでもちょっと角度を変えて考察してみます。

本当に「自分の悩みなのか」どうなのかという観点です。

今度は、小林正観著『100%幸せな1%の人々』から引用してみます。

「夫が酒を飲んで夜12時以降にしか帰ってこない。どうしたらいいか」
「子どもが不登校になってしまった。どうしたらいいか」
「叔父と叔母が喧嘩ばかりしている。どうしたらいいか」
「となりの住人がなにかと難癖をつけてくる。どうしたらいいか」

いずれの相談も、「自分がどう生きるか」ではなくて、「自分以外の人をいかに自分の思い通りにするか」ということが、自分の「悩み」だと思っています。

「自分以外のものを自分の思い通りにする」という考え方を全部やめる。そして、目の前の人が、自分の考え、価値観、生き方と違うことを認めて、まるごと受け入れてしまう。他人のことよりも、「自分がどう生きるか」だけをまず考える、というのはどうでしょうか。

何かを思い通りにしようとはせず、その人がそういう人であることを認めてしまった方が、自分にとっても一番ラクだということです。

 

もしお時間があれば、何も考えずに今すぐこのブログを読むのをやめて、今現在の自分の悩みを思いつくままに書き出してみてください。

いかがですか?
自分の悩みの正体をよーく見てみると、実は自分以外のところにやきもきしている内容がたくさんありませんか?
「自分以外のものを自分の思い通りにする」ってとっても難しいことです。

このブログでもよく使う言葉「受容」。
すべてを受容し、自分がどう変わるか、どう生きるかに集中することで、見える世界、人間関係が見事に変わってきます。

私も経験がありますが、それまで、他人の言動や運命に翻弄されていた自分が、鳥かごから放たれるようなそんな感覚すら覚えます。

ここで、以前の投稿「ストレス:思いを持たないという生き方」で「諦観(ていかん)」の話が出ましたが、「四諦(したい)」という言葉があります。
同書からもう少し。

お釈迦様が話されていた「四諦(したい)」というものがあります。これは「苦諦(くたい)」「集諦(じったい)」「滅諦(めったい)」「道諦(どうたい)」の4つの諦め、すなわち「悟り」のことをいいます。

第1番目の悟りである「苦諦」は、
「人生はすべて苦悩の連続で、その集積から成り立っている」と悟ること。

第2番目の「集諦」は、
「苦しみの元(根源)はすべて執着にあり、自分が何かに執着しているがゆえに、苦悩や煩悩が生まれるのだ」と悟ること。

第3番目の「滅諦」は、
「その執着やこだわりを滅すれば、楽になるのではないか」と悟ること。

第4番目の「道諦」は、
「執着やこだわりを滅する実践をすること。日常生活のありとあらゆる場面で、執着を捨てる訓練をする」というものです。

 

「諦める」という言葉はあまり良いイメージはありませんが、「悟る」となると、一つ突き抜けたような、仙人のようなイメージがありますよね。

もちろん、自分自身が何かに挑戦していて、難しいからと簡単に諦めるのはどうかと思います。
でも、今の自分の「悩み」の正体が「自分以外の人をいかに自分の思い通りにするか」というのであれば、それはそういうものであってどうすることもできないと潔く諦める(=悟る)ことが肝心です。
どんなに悩んでも変わりません。
これからは「自分がどう生きるか」にフォーカスを当て、集中することがとても大事だということです。

また長くなってしまいました。
全編自戒の念を込めての内容でした。

今回もお付き合いいただき、ありがとうございました。


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