夜になると、あちらこちらでクリスマスのイルミネーションがきらめき、ジングルベルの音楽が聞こえてくる季節になりました。
わくわく感もあるけど、一気に年末に近づいているという、一種焦りにも似た感覚になるのは私だけでしょうか。
今年は遅くまで暖かかったせいか、東京あたりでは、まだ落ち葉の音は聞こえてこないですが、道行く人々もコートの襟を立て、首にマフラーを巻いている人も増えてきました。
風邪など引かないように気をつけたいものですね。
さて、このブログのタイトルは、「サナギ・ブログ良いとこ取りの人生哲学」です。
サナギの意味は、「人生哲学:サナギ(sanagi)の意味」でも投稿した通り、二つあります。
一つ目は、サナギそのものの特徴。
二つ目は、「s・a・n・a・g・i」というスペルです。
今回は「s・a・n・a・g・i」のフローを簡単に説明したいと思います。
想像(Imagination)編
自分を知ること
すべては自分を知ることから始まります。
他人のことは観察や分析ができても、自分のことはけっこうわからないものです。
何がほしいのか?
何がしたいのか?
どういう人になりたいのか?
どう豊かになりたいのか?
といったことは、ぼやーっとわかっていても、具体的に突っ込まれると、はたと考え込んでしまうものです。
「7つの豊かさ」や「Have Do Be」のリストを作成しながら、自分自身に問うていくことによって知らなかった自分に出会えるはずです。
日記やブログ、ツイッターなどのコミュニケーション・ツールも、意識を持ってやれば価値観が明確になり、とても効果的です。(日記やブログは自分自身とのコミュニケーション・ツール)
自分を受け容れること
自覚した後、自分とその環境すべてを受け容れるという段階に入ります。
自分自身を受け容れられない状態で、他者を受け容れるのは難しいし、そのまま次に進もうとすると、必ず壁にぶち当たります。
長続きしない自分、優柔不断な自分、弱い自分、そのままの自分をしっかりと抱きしめ、すべてを受け容れ、そして感謝する。
これがあってはじめてなりたい自分を描き、前へ進んでいくことができるのです。
自分を変えること
自覚、受容ときて、次は習慣。
私たちの日々の思考や行動は、小さい頃からの条件づけや教育などによってすり込まれてきた習慣によってなされています。
理想とする自分に生まれ変わっていくためには、今までの悪しき習慣を見つけ出し、排除しながら、新しい習慣を身につけるための努力をしなければなりません。
何が悪しき習慣で、どのような習慣を身につけていくべきかは、自分自身が一番よくわかっているはずです。
それを価値観や目標に置き換えながら、最終的にはミッション・ステートメントを書くことで、前半の想像(Imagination)編はクリアです。
創造(Creation)編
自分を動かすこと
想像(Imagination)編の価値観や目標、ミッション・ステートメントが自分自身の憲法やコンパス、設計図となるので、それを元にいよいよ創造(Creation)編へと進みます。
古い習慣を捨て、新しい習慣を身につけるためには、自分を律して何度も同じことを繰り返さなければなりません。
これは、ただひたすらに実行あるのみです。
目的意識を持ってやってみれば、習慣は意外と身につくものだということがわかります。
長期目標、1年、1ヶ月、1週間と落とし込んで行くことで、実行する内容がより具体的になります。
例えば、朝起きるのを1時間早めるだけで、人生は大きく変わるものです。
自分を生かすこと
例えば、野球をしていても、ミスをすることもあれば、大活躍することもあります。
自分のミスでチームのみんなに迷惑かけて落ち込んだり、逆にホームランをかっ飛ばして大喜びしたり、、
失敗と成功を重ねながら人は成長していくものです。
日々生活していく中で、自分で立てた目標やミッション・ステートメントでは不備な点が出てきたり、修正した方が良いことがあります。
そういうときには思い切って軌道修正すれば良いのです。
なんでも最初から完璧な計画なんてないのです。
自分を解き放つこと
人間の成長を見てみると、最初は完全な依存状態で生まれて来て、時を経ながら、肉体的、知的、経済的、精神的に自立していくようになっています。
親やお金、友人、物質、敵、組織などに依存、あるいは執着していては、いつまでたってもそこから抜け出すことができません。
自立とは、何かに依存していた私自身を、主体的に解放してあげることなのです。
そして、この自立という土台の上に人間関係を成り立たせることによって、よりよい社会が実現して行くに違いないのです。
ところで、上記6つの項目にはすべて「自分を…」という言葉があります。
【自覚】:自分を知ること
【受容】:自分を受け容れること
【習慣】:自分を変えること
【実行】:自分を動かすこと
【成長】:自分を生かすこと
【自立】:自分を解き放つこと
この言葉の主語はすべて「私」です。
ひっくるめて言うと、私が私自身を主体性を発揮しながら育てるということです。
ここで『7つの習慣』から一部引用してみます。
主体性とはよく聞く言葉だが、定義が曖昧になっている場合が多い。主体性をもつということは率先力を発揮するだけではなく、人間として自分の人生に対する責任をとるということである。私たちの行動は周りの状況からではなく、私たち自身の選択によって決まるのだ。私たちは感情を価値観に従わせることができる。そして、物事を成し遂げる率先力を発揮する責任を負っているのだ。
責任は英語でレスポンシビリティー(Responsibility)という。この言葉の語源を見るとレスポンス(Response:反応)とアビリティー(Ability:能力)という二つの言葉からなっている。主体性のある人はそのレスポンシビリティー「自分の反応を選択する能力(ちから)」を発揮している。彼らは自分の価値観に基づく意識的な選択の結果であり、状況によって起きる一時的な感情の結果ではない。
人間の本来の姿は主体的なものである。だから、意識的な選択にせよ、無意識的な選択にせよ、もし自分の人生が今までの条件づけや周りの状況にコントロールされているとすれば、それは、そうしたものに主導権を譲った結果にほかならない。
私自身の人生は、たとえ誰かの助言や何かの書物に助けを求めたとしても、自分で選択し決定すると同時に、自分で責任をとっていくというところがポイントです。
これはとても重要なことで、何かに依存状態であったところから、自立していく上での基本姿勢なのです。
もう少し続きを引用します。
自分の人生に対する責任を放棄すると、反応的になる。例えば、反応的な人の多くは周りの物的な環境に大きな影響を受ける。天気が良ければ、気分も良い。しかし、天気が悪ければ、気分も悪くなり、遂行能力も低下する。主体的な人は、自分の天気を持ち合わせている。雨が降ろうが陽が照ろうが関係ない。彼らの行動は価値観に導かれており、質の高い仕事をする価値観を持っていれば、天気がどうであろうと関係ない。
反応的な人は社会的な環境(社会の天気)にも大きく影響される。人が親切にしてくれると気分がいい。そうでないときは、不機嫌になったり落ち込んだりする。反応的な人の精神状況は他人の行動や言葉に左右され、振り回されることになる。
「自分の価値観に基づき行動する」ことは、主体的な人の最も基本的な性質といえる。反応的な人は「その時折の感情、状況、条件づけ、環境などに左右される」が、主体的な人は深く考え、選択し、内面化した価値観に基づいて自らを支配するのだ。
だからといって主体的な人が、天気などの物的、社会的、心理的な刺激に影響されないかというと、そうではない。しかし、それに対する彼らの反応は、価値観に基づいた選択なのである。
この「s・a・n・a・g・i」フロー自体は、私にとっての「良いとこ取りの人生哲学」です。
たくさんの書物や、セミナー、実際の人生経験などから見えてきた生き方なので、これが当てはまらない人もいるでしょう。
それはそれで良いと思います。こうじゃなきゃダメっていうのはないんですよね。
より主体的、積極的に自分の人生に対して働きかけるという生き方もあれば、流れのままにという生き方もあります。
それぞれの価値観のもとで、自分の人生を哲学できる自由。
そしてその人生哲学をもとに責任をもって生きていく自由。
これって素晴らしいことですよね。
一人の人との出会いで生きる意味を気づかせてくれることがあります。
一つの言葉が人生を変えてくれることがあります。
でも、すべては「私」が気づき、変わるのであって、その人や言葉にいつまでも依存していてはダメなんですよね。
日本には「守破離」という素晴らしい思想がありますが、師匠や先人の優れた教えを良いとこ取りしながら、自分自身の人生哲学に磨きをかけていこうではありませんか。
また長い投稿になってしまいました。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
「主体性を発揮する」という今回のテーマは
わたしの今の心境にぴったりです。
自分の価値観に基づく意識的な選択を行いながら、
自分の人生を主体的に生きる…それはまさに、
わたしが今まで目指してきた、理想の生き方です。
誰の人生でもない、一度しかない自分の人生を
どう生きていきたいのか…。
十代の頃、ひりひりするような焦燥感を抱いて
この命題を考え抜きました。
その後の人生で、その時々における精一杯の
悔いのない選択をしてきたつもりです。
今また、人生の岐路に立って思うこと。
あの十代の頃に感じた純粋な想い、
心の底から湧き上がった自分の望みを思い出して、
原点に還ろう、あそこにこそに自分自身の真実がある。
そして、あの頃よりも成長したわたしが言う。
理想と現実は違うというのは大人の言い訳だ、
現実は限りなく現実に近づけることができる。
あきらめずに続けていけば、
いつかは一致することもあるかもしれない。
たとえ、一生かかってそれができなくても
それはそれでいいじゃないか。
やるだけのことをやり尽くせば、後悔はない。
あとは執着を手放して、
清々しい境地にたどり着ける。
それだけでも充分。
もしかしたら、
何か偉大なものの力が働き、
最後の仕上げをしてくれるかもしれない。
そうなれば、それは僥倖だ。
いつでも、どこからでも人生は変えられる。
そうだよね?さな爺。
何だかどこまでも頑張れそうな気がしてきました。
さな爺、いつも示唆に富む内容のブログをありがとう。
結局、自分の人生の主人公は、自分自身なんですよね。
たとえ、誰かの妻や夫、父や息子であったとしても。
社長の秘書であったとしても。
自分の人生というドラマのプロデューサーも自分なので、本来は自由にその世界を創り上げることもできるはずです。
そして、さまざまな世界観をもった人々との交わりの中で、さらに自分だけでは生み出すことができない、新しい世界やドラマが生まれ、広がっていくんだろうなって思っています。
星と空間で成り立っている宇宙も、そうやって同じように無限の広がりをもって膨張し続けているんでしょうね。
星たちが、他の星たちとバランスよく引力を保ちながらも、主体的に自己主張しながら輝いているように、私たち人間一人ひとりも、輝かせていけると思うのです。
何等星の明るさかは問題ではないですよね。
精いっぱい自分を輝かせることができる、そんな人生にしたいなと思っています。
じゅんこさん、いつも深いコメント、ありがとうございます。