人に喜ばれる存在とよき仲間たち

すかっと秋晴れ、スポーツシーズン

今日はすかっと秋晴れ!
日中はまだ暑いくらいですが、まさにスポーツの秋。

我が家の地域は、年に2回運動会があります。

今日は幼小運動会。
4人の子どもたちのうち、中二長女以外、3人が該当します。
毎年帰って参加していましたが、今年は仕事の都合で帰ることができませんでした。

10月には、幼小中、婦人会、青年団、老人会、消防団、全町あげての大運動会。
どうやらこれにも帰られそうにないということが判明し、少し凹んでる今日この頃。。

さて、気を取り直してブログを書きます。

私たちは家族や会社、学校、地域社会など、常にどこかのコミュニティに属しながら多くの人たちに囲まれて日々の生活を送っています。

たった一人で生きている!と断言できる人は、少なくともこのブログを読んでいる人の中にはいないと思います。

人は人間として、たった一人では生きていけない

パソコンを使う。
学校に通う。
服を着る。
ラーメンを食べる。
長距離を移動する。

どれ一つとっても、すべてをたった一人で実行することはできません。

私たちがライフラインと呼んでいる、電気・ガス・水道等の公共公益設備や電話やインターネット等の通信設備、また流通網などもたくさんの人の手で支えられています。

つまり、人と人が有機的につながりながら、この社会を創りだし、運営しています。
あたかも、60兆個の細胞で構成されている人体のように。

さてここで、ストレス:思いを持たないという生き方でも紹介した、小林正観著『もうひとつの幸せ論』から少し引用してみます。

もうひとつの幸せ論

人は1人で生きていると「ヒト」ですが、喜ばれるように生きていくと、人と人の「間」で生きる「人間」に変わります。人の間で生きるということは、「自分が必要とされている」ということです。
「人間」の生きる目的は、ほしいものを得たり、何かを成し遂げることではなく、
・「人の間で喜ばれる存在になること」
・「ありがとうと言われる存在になること」
にほかなりません。発する言葉や表情など、その人のふるまいが「まわりを喜ばせるもの」になっていれば、投げかけた結果として、まわりの人があなたにとっての「よき仲間」になってくれるでしょう。
教え合い、学び合い、交換し合う「よき仲間」に囲まれたなら、それだけで「天国度100パーセント」。頑張りも努力もいりません。ただ、「喜ばれること」を続けていけばいいのです。

 

先ほどの細胞に関する話は、
『思考のすごい力』というすごい本
がん細胞にはならないぞ!
コミュニケーションって大事
でも少しずつ取り上げていますが、
一つひとつの細胞はものの見事に有機的につながっており、絶妙なコミュニケーションをとりながら人体のバランスを保とうとしています。

頼まれやすい人

人体では、細胞一つひとつが、One for all. All for one.の思想で成り立っているというわけです。

その人体というコミュニティの中で自分勝手に振る舞うと、ガン細胞になっていったり病気になってしまうのです。

さて、引用文の中の、

・「人の間で喜ばれる存在になること」
・「ありがとうと言われる存在になること」

という内容は、至ってシンプルですが、とても奥が深いです。

このブログでは自己啓発や成功哲学の書籍をよく取り上げます。
中には、自分の目標を立てて、日々管理しながら、それに向かってがむしゃらに突き進む!的なことがよく書かれてあります。

でも、この『もうひとつの幸せ論』にはそれとはまったく正反対のことが書かれてあるのです。
もう少し引用してみます。

私たちが生まれてきた目的は、「人に喜ばれる存在」になることです。言い換えると「頼まれやすい人になる」ということでもあります。

頼まれてもいないのに「これをやってあげたら喜ばれるだろう」と考えて行動すると、「余計なおせっかい」を押しつけてしまうことにもなりかねません。けれど、よき仲間からの「頼まれごと」をしている限りは、間違いなく喜ばれるでしょう。
「頼まれごと」とは、自分で汗をかいて「その人の要望」に応えることです。頼まれごとは、時間の許す限り、能力の許す限り、どんどん引き受けていきましょう。

その相手から「頼んだことを気持ちよくやってくれるから、あの人にまた頼もう」

「あの人に○○○○してもらったからよかった」
と思われたとしたら、それはまぎれもなく「喜ばれている」ということです。

自分で立てた「達成目標」を駆け上がろうとすると、結局は「自分がどれほどすごい人になるか」という考えにとらわれ、利己的に生きていくことになります。

自分の利益のみを追求しているうちは「喜ばれる」ことはありません。利己的な人は「喜ばれるような投げかけをしていない」わけですから、喜びが返ってくることも、「よき仲間」に囲まれることもありません。それが宇宙の法則です。

達成目標や努力目標をつくらない。頼まれごとを引き受けて、淡々と生きていく。「あれがしたい、これがしたい」という自我を持たず、他人からの評価や論評にも左右されず、他人からの「頼まれごと」を淡々とこなしていく。その結果、あなたは「喜ばれる存在」となり、ひいては「よき仲間」に囲まれる(=天国度100パーセント)ようになります。

人間にとって「自分の存在が喜ばれる」ことこそ、心から嬉しいと思えることなのです。

 

引用文の中に、「頑張りも努力もいりません」とか「達成目標や努力目標をつくらない」という表現が出てきます。
・・こういう生き方もあるということです。

でも、よく考えてみれば、人からの「頼まれごと」をこなすことも、頑張りや努力が必要です。

デザイナー

例えば、私もデザインをかじっているので、人から名刺やコンサートチラシの制作などを頼まれます。
頼まれたからには、その人が喜ぶように色々頭をひねります。

この人はどんなニーズを持っているのか?
こういうデザインにしたら喜ばれるのではないか?
などと考えるし、その考えを具体的にデザインするのにテクニックが必要になったりします。

そうなると、必然的にデザインの技法やソフトの使い方などを勉強し、そのニーズに応えようと努力します。

そうこうしているうちに、どんどんスキルがアップしていきます。

最初は趣味や好きで始めたことですが、今となっては私の仕事に大きなプラスになっています。

私も自分なりの努力目標などを設定しながらやっては来ましたが、よき仲間に囲まれながら、人からの頼まれごとをこなしてきた人生でもあったなとつくづく思うときがあります。

そう言いながらも、「自分はこうあるべきだ」とか、「こんな仕事よりもっとレベルの高いところでやれる人間だ」なんて考えて、仕事を選んでいる自分がいることに気がつくこともあります。

そんなことをしていると、いつの間にか人からの頼まれごとは減り、よき仲間も遠ざかって行くかもしれません。

最後にもう一箇所引用してみます。

目の前にいる人、一人ひとりを大切にしながら「よき仲間」と一緒に過ごしていれば、それが天国なんです。

上を目指すとか、足りないものをリストアップして、それを「夢」や「希望」に置き換え、努力を重ねて手に入れようとすることは、「幸せを手に入れること」とは違います。

お釈迦様

お釈迦様の弟子の1人、アーナンダは、20歳から50歳までの30年間、お釈迦様の付き人をしていました。ある日、アーナンダは、お釈迦様にこう尋ねます。

「お師匠様…、歩きながらふと思ったのですが、よき仲間に出会うことは、聖なる道の半ばまで来たと思っていいのではないでしょうか?」

聖なる道とは、心に曇りや苦しみがなく、明るく穏やかに生きていけることです。

アーナンダの問いかけに、お釈迦様は答えました。

「アーナンダよ…、よき仲間を得ることは、聖なる道の半ばではない。聖なる道のすべてである。よき仲間を得るということは、闇の中で迷ったときに、手を引いてくれる友人がいる。闇を照らしてくれる灯火になる。それをよき仲間という」

 

「自己実現」とか、「夢を叶える」とか、ガンガン突き進む人生は、それはそれで一つの生き方です。実際にそれで成功し、豊かになっている人たちもたくさんいます。

でも、夢や理想を実現した時に、周辺に誰もいなくなっていたら、なんの意味もありません。

人生の最終目的は何かと色々考えたときに、
よき仲間に囲まれて人に喜ばれる存在になること!
結局はこれに尽きるかなと。

そんなことを考えながら、「よき仲間たち」に感謝する日曜の朝でした。


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8 thoughts on “人に喜ばれる存在とよき仲間たち

  1. お兄ちゃん、こんばんは。
    いつもブログありがとう。
    そしていつも、私にとってタイムリーな話題をありがとうございます。

    人に喜ばれることと、自分のしたいことを融合できたら幸せ。
    だけど、時には自分の力を試したいこともある。
    それが、最終的に喜ばれることになるように目的を忘れなければ
    今反対されても、いつかきっと理解してもらえるよね。

    毎日仕事をしてると、喜ばれることの中にこそ大切なことがあるということに気づく。
    でもそれは、引き受けたことをそのままこなすこととは違う。
    今よりも、もっと良いものを返してあげたい、役に立てたらいいな、という思いを込めたい。
    それは目標となって、お互いを引き上げる。
    新しいことに挑戦する時も、そういう目標を持ちながら働いていきたいな。
    そして友達との関係もそうでありたいと思うの。

    1. fuuちゃん、いつもコメントありがとう。
      自分のやりたいことと、人に喜ばれることが一つになるって理想だよね。
      でも、なかなかそうはいかないことばかり。

      人からの頼まれごとをこなすだけで、満足できる人(大衆)もいれば、
      もっと上を見つめながら、前へ前へ進んでいきたい人(開拓者)もいるから、
      この世はうまく回ってると思うよ。

      fuuちゃんは新しい道を開拓していく人だと思う。
      最初は人に理解されないかもしれないけど、
      その中でもよき理解者、よき仲間たちが必ずいるはずだから、
      その人たちを大切にしながら、歩んで行くようなイメージ。

      歴史に名を残す人たちって、みんなそうだよね。
      fuuちゃんの信念はエゴから来るものではないので、大丈夫!!^^v

  2. さっき、さな爺の言わんとしていることと同じ意味の事をつぶやきました。呼ばれていくこと。自分の意思で行ったのではないのだけれど、そこでやることがあってそれを果たすと喜ばれる。もちろん、自分の持っている何かを使って。そうすると、他人も自分も幸せになれる。物事がうまくいく。利己的な自我はエゴと呼ばれるものなのでしょうね。それを手放すことが心の平安と幸せをもたらす。器の中身を空けておく。いつでも、何かを入れられるように。宇宙の法則、タオイズム…いろいろな言葉であらわされるけれど、真理なのだと思います。

    1. umejunaさん、おはようございます。

      利己と利他って実は表裏一体ですよね。
      例えば、「あなたの幸せはなんですか?」と伴侶に訊かれて、
      「あなたが幸せでいてくれること」って答えるみたいな。

      最初に宇宙を創った存在も、最初の最初は自分しかいないのだから、
      利己の塊だったのかもしれませんね。だから創造の動機も利己的。
      そこに、自分の外に自分に似せて、ある対象を生じてきて、
      その時はじめて「利他」の境地が生まれたのかなって思います。

      愛するとか、許すっていうのもすごく利己的なことだけど、でも利他になってる。
      なので、ある意味エゴ(利己)はないといけないと思うんです。

      この相反するんだけど、実は一体のもの。個であり全体である、という宇宙の法則。
      umejunaさんのコメントを読んで、深ーい瞑想に入りたくなりました。

      いつもコメント、ありがとうございます。

  3. お兄ちゃんとJunちゃんのお話、とても勉強になります。

    私は、自分が大好きなの^^
    こういうと、すごく利己的に見えるよね。
    でも、自分が好きでないと人に何も与えられないし、凛としていられない。
    すごく嫌なこともあったけど、自分を好きでいるための努力をした。
    悪意や誤解に引きずられないように、自分を保てるように。

    悪意や、どうにもならない状況から学ぶことは沢山あった。
    自分を好きでいることは、全てを受け入れ、相手の弱さを許し、自分の中の同じものと向き合う強さを育てる。
    そして未来をみることができる。

    自我を捨てて受け入れることを学ぶ人もいるし
    自分を好きでいようとして受け入れられる人もいる。
    どっちのメソッドも知ってると辛くなった時に切り替えができるよね。

    物事を考えるとき、必ず2つの相対する方法がある。
    ことわざもそうだね。
    お兄ちゃんのブログでも、それを学んだよ。
    ひとつの方法でガチガチにならないって大切だなーって思う。
    この相対性の中で自分を多角的に見ることができるようになると
    幅が広がっていくような気がする。
    見てるつもりでも、見てなかった面って必ずあるってことを知ってると、それが自己抑制にもなるんだよね。
    自分を訓練することができるし、見失わないようになれる。
    私はまだまだで、ときどき嫌にあることがあるけど、
    そういう時こそ自分を好きになるチャンスだと思うようにしたの。

    いままで後悔することも色々あったけど、
    それを選んだその時は一生懸命だった。
    そう思えたら、これからまた頑張ればいいやって思えるの。
    こうして自分の宇宙を作っていきたいな、と思います。

    1. fuuちゃん、いつもありがとう。

      どんなに利他的に生きようとしても、自分が確立してないと、ただの偽善になっちゃうよね。
      だから、まずは「自分ありき」なんだよね。

      自分という軸が強固であればあるほど、他への影響力は大きくなり、より正確になる。
      と同時に、軸がしっかりして動かないってことは「ない」のと同じ。
      つまりその時に絶対利他の位置に立てるよね。
      絶対自己が確立されたとき、絶対利他が同時に成立するって感じ。
      ちょうど太陽が最も高くなる正午に物体の影がなくなるように。。
      どうやらこれは宇宙の法則だね。

      もちろん私たちは人間だから、なかなか「絶対」とまではいかないけど、
      まずは自分のことをよく知って、好きでいないと、悪意や誤解にぶれちゃうし、
      相手を許すこともままならないよね。

      fuuちゃんの言うように物事を考えるとき、確かに相対する2つの方法があるよね。
      目も左右二つついてるのはそのためなのかな。
      二つあるから物体が立体に見えるんだね。

      二つの目で、目の前の真実をしっかり見つめながら自分の宇宙を創っていきたいよね。
      こんなことを考えていると、話は尽きないね。^^

      重ね重ね、ほんとうにいつもありがとう!

  4. お兄ちゃん、太陽のお話とても素敵。
    しばらく、このことをずっと考えていたの。
    こういうことなんだって体感することが最近あったよ。
    でも、全てにおいてそういう存在であり続けることは、とても難しい。
    だからこそ挑戦する価値があるね。

    でも、やっぱり完全にそうなることは無理かも。
    ときどき、わたし、ぐらぐらするから^^;
    でも、そうして悩むことも必要だよね。
    とか言って自分を慰めたりして^^

    今朝見てきた海は、打ち寄せる白い波の向こうに滑らかな大海原が続いていて
    太陽のあたる水面はきらきらしていて、そして海に続く空は青く透き通り
    綿飴のような白い雲が風に吹かれるままたなびいていました。

    この素晴らしさを写真におさめることができなかったの。
    人間の目ってすごいね。
    こんな風に、写真の平面では分からないものを、ちゃんと見れるように
    物事をしっかり見て考えられるようになりたい^^

    1. fuuちゃんの心情に訴えるほどのいい海と空を見てきたんだね。

      自然は、時として私たちの先生になってくれたり、親のように包み込んでくれたりするよね。
      人間以外のもの全ては人間のために準備された環境なのかなって思うくらい、色んなメッセージを色んな形で伝えてくれる。

      人間はけっして「完全」や「絶対」じゃないからこそ、味がある人生が送れるのかもね。
      私も「ぶれない自分」を目指して努力をしてるけど、そう簡単じゃないね。
      朝に変わり昼に変わり夜に変わる自分がいるんだよね。
      でも、そういう自分を受け入れることが大事だってことに気づいてからは、
      焦らず騒がず、どっしり構えることができた気がするよ。

      二つの目で現実の物事を見つめ、心の目で自分自身を見つめながら、自分の理想の宇宙を創造していきたいね。
      いつもありがとう!

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