親という存在

「親」という字は、親が我が子を「木の上に立って見る」という意味がある

私がいまここにいるのは親がいたから

昔、3年B組金八先生というテレビドラマで、武田鉄矢扮する金八先生が「「親」という字は、親が我が子を「木の上に立って見る」という意味があるんだ」と言っていた記憶があります。

「親」という漢字の由来が本当にそこから来ているかどうかは定かではありませんが、今でも覚えている名言です。

私が今ここに存在しているのは親がいたからです。
その親にも親がおり、そのまた親にも、、、
それが連綿と続いてきたわけです。

この世に生を受けて最初の記憶をたどってみると、親子の関係においてさまざまな記憶がよみがえってきます。

親のたった一言で傷つき、一言に噛みついてた反抗期や思春期の頃、それまでほぼ100%、親に依存して生きてきた「私」というアイデンティティを確立していくためのプロセスだったんでしょうね。

先回の投稿「人が行動するときの動機:快楽と痛み」でも少し触れましたが、親に反抗したり反発するのは、親に対するというよりも、その時点の自分への反発であり、自覚、自立していくために誰もが通る道なのかも知れません。

やがて伴侶と出会い、結婚し、実際に自分自身が親になってみて初めて、その親の愛というものを実感していきます。
子どものためには命を惜しまない親の心情や、そこから覚える葛藤と身もだえするような心配など、私が親から受けてきたその愛を知ることができるようになります。

でも実は、実際の親にならなくても、元々人に備わっている親としての性質の種を育んで行くことができます。
それは、犬や猫などのペットを通して可能です。

我が家にも私が小さい頃から犬や猫がいました。

小動物が人間よりも短命なのは、その「死」を通して、命の大切さや親子の絆を教えてくれている

小学生の頃、生まれたばかりの子犬をもらってきて、エサをやったり散歩に行ったり、その鳴き声を聞いて何を欲しているのかを判断したり。。
その子犬は世話をしてくれる私や弟を親と慕ってくれるし、私たちは親になった気持ちでその子犬の世話をしたものです。

また、私の8つ下の妹が中学の時のある日、かわいがっていた猫が交通事故で死にました。そのときの妹の悲しみは、子どもを亡くした母親そのものでした。
三日三晩泣き続け、すべての希望を失ったかのような、そんな日々を送っていたのを今でも覚えています。

犬や猫など、ペットとして飼われるほとんどの小動物が人間よりもずっと短命なのは、その「死」を通して、命の大切さや親子の絆を、私たち人間に擬似的にでも教えてくれているのかなと思ったりもします。

大自然の中には、他にも親子の関係に関するメッセージがたくさん散りばめられています。
そのストーリーの一つが、鮭(サケ)の一生です。

サケは故郷である川の上流で生まれ、その後、川を下って大海に出て行きます。
海の荒波にもまれたサケは、立派な筋肉をつけ、体も大きくなって、ある時、生まれ故郷に向けて川を上りはじめます。

途中、堰(せき)や滝、急流やサケを狙う動物など、数々の難関をくぐり抜けながら、故郷にたどり着く頃、体はもうぼろぼろになっています。
最後の最後、雄と雌が渾身の力を振り絞って次世代の卵を生み落とすと、その一生に終止符を打っていきます。

彼らの何兆個という細胞は、激流を遡上してきたことと、産卵にその生命力の100%が消費され、燃やし尽くされているので、死後は考えられないほどのスピードでバクテリアが繁殖し、腐乱が進み、未来の子どもたちの温床になっていきます。

なんという親の姿でしょう。

サケの一生はすごい

私はこの話を聞いたときに、これこそが「親」としての役割であり、姿なんだなと思いました。

親は子どもより少し早く生まれたというだけで、歴史の結実としてこの世に生まれてきた一生命、かけがえのない一個体、そして心を持った一存在としては、全く同等の価値があります。

子どもが生まれたときに初めて「親」として誕生します。
つまり「親子の年齢は同じ」って話をよく聞きますよね。
子どもを通してしか親としての成長を味わうことができないということを考えると、親にとって子どもは師匠なんです。

そして、子どもの成長過程においての親の役割としては、しつけや環境整備など、途中まではクレーンのように子どもを下から上へ導いてあげることも必要かも知れませんが、最終的には子どもたちのステップ台となってあげる存在なのだと思うのです。
親が子どもに対して、いつまでも親に依存できるような環境を残しておいては、逆に子どものためにならないのです。

そのステップ台の内容としては、土地や金、地位や名声という要素もないわけではないですが、最も大切なのは、その「親」としての生きた証、人柄、人格です。

子どもは、その親が残してくれた人格というステップ台の上に立って、さらに上へと上がっていくようになっています。またそうあって欲しいと願うのが本当の親の姿です。

本来、親なら誰でも、子どもに対して自分よりずっと立派になって欲しいし、幸せになって欲しいと願うものです。

実は、この内容は、親子関係だけでなく、上司と部下、師匠と弟子、先生と生徒などにも通用する宇宙の法則に他なりません。これは、守破離にも通じます。

「親身になる」という言葉があります。
家庭に限らず、会社や学校、さまざまなコミュニティなどで、自分以外のすべての人に対して、この「親」の心情を持った人たちが、みなから慕われる真のリーダーや責任者になっていく!と感じた日曜日のすがすがしい朝のひとときでした。


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