人が行動するときの動機:快楽と痛み

人が行動する時の動機は二つ→快楽と痛み

私たちは、今日は何の服を着ようか、から始まって、就職、結婚、などなど、些細なことから人生を左右する大きな出来事まで、何かの行動を起こすときには、かならずその行動に移す時の動機があります。

例えば、仕事を一生懸命するのは、養う家族の喜ぶ顔を見るためかも知れませんし、マイホームやフェラーリを買うためかも知れません。

あるいは、もう習慣になってしまって止められなかったたばこを必死になって禁煙しようと努力するのは、将来起こりうる病気との闘いの痛みを恐れているからなのかも知れません。

いずれにせよ、人生を歩んでいく上で、どっちかの選択を迫られたとき、どっちを選ぶかは、右へ行ったときの結果、左を選んだときの結果を連想しながら動機づけが行われ、行動に移されていくものです。

その、人が行動するときの動機に関してわかりやすく説明している文があるので、ジェームス・スキナー著『成功の9ステップ』から引用してみます。

成功の9ステップ - ジェームス・スキナー

人間の行動は、皆が思っているほど複雑なものではない。実際のところ、ヒトラーも、マザー・テレサも、オサマ・ビン・ラディンも、ジョージ・ブッシュもダライ・ラマも、中国の政府も、あなたも、私も、皆同じ理由と動機で行動している。

「いいかげんにしてくれよ、そんなはずはない」

あなたはきっとそう思っていることだろう。しかし、本当のことだ。誰もが全く同じ動機で行動している。

やや心理学的な話になるが、フロイトは人間の心の第一の要素は「イド」だと説いた。このイドは即座の快楽を求め、苦痛を避けようとする。

この作用を心理学では、「快楽と痛みの原則」と呼んでいる。

つまり、人間はつねに「快楽」を得ようとし、「痛み」を避けようとしているのである。

私たちの言語の中には、この痛みと快楽を指す言葉がたくさんある。孤独、飢え、不快、退屈、憂鬱などは痛みの別名である。そして、喜び、エクスタシー、自信、達成感などは快楽を言い換えたものである。しかし、もっとも基本的なレベルでは、すべてが同じだ。

つまり、人間のすべての行動は、「快楽」と「痛み」によって引き起こされているのだ。

より正確に言うならば、人間は、意識している、していないにかかわらず、快感が得られ、苦痛が避けられると思う行動をとるということだ。

 

※イド:《ラテン語で、それ、の意》精神分析で、人格構造に関する基本的概念。人間が生まれつき持っている無意識の本能的衝動、欲求など精神的エネルギーの源泉。快を求め不快を避ける快楽原則に支配される。(デジタル大辞泉より)

私自身、10年ほど前から単身赴任生活を続けていますが、今、その時の動機を分析してみると、「家族離ればなれでいる痛み」と、「東京での仕事の楽しさや刺激、高報酬の喜び(快楽)」の、どちらかを選択するというときに、後者の方を選んだんでしょうね。もちろん理由はもっとたくさんありますが、大きく言うと上記のような感じです。

今となっては、前者の方がより強くなってきているので、その解決策を模索しているところではありますが。。。

この、「快楽と痛みの法則」をわかってみると、意図的に連想することによって、自分の動機づけができるようになってきます。

私たちは、幸福を実現するために目標を立てたり、大きなビジョンを掲げますが、ややもすれば、日々の生活に流され、楽な方へ楽な方へと流されていきます。
これは、その場限りの快楽を求めてしまうことによって、あとに待っている、より大きな苦痛を考えてないから起きてしまうのです。

アリとキリギリス

例えば、夏休み。
小学校の頃の夏休みは毎日が夢のように楽しく過ぎていったものでした。
私なんかは外に出て遊びたくてしょうがない少年だったので、宿題はどんどん後回し。
当然のごとく夏休み最後の3日間は泣きべそ書きながらの光景。

まさにアリとキリギリスの話ですね。

また、別の例ですと、

親の子に対する愛情は、計り知れないものがあります。
子供が病気で死にかけたとき、母親は自分の命をなげうってでもその子を助けようとします。
それは、自分の命をなくすという痛みよりも、子への愛(快楽)や子を失ってしまうという恐れ(痛み)の方が大きいからそうするのです。

さて、もう少し同書から引用してみますと、、

数年前、私はスティーブン・R・コヴィ博士と一緒に東南アジアの各国を歴訪する機会に恵まれた。彼がインドネシアのジャカルタで、大勢の財界人に講演していたときのことである。博士は聴衆に向かって次のように言った。
「私たちは、子供の頃に受けるプログラミングに対してはまったく責任がない。しかし、大人として、そのプログラミングを修正する責任は100%持っている」
面白いことに、人間はどんなものに対しても快楽または痛みを連想させることができる。

(中略)

もしあなたが夢の人生を手に入れたいと思うなら、自分の連想体型をコントロールしなければならない。夢の実現や成功に役立つ活動のすべてを、快感と結びつけなければならない。そして逆に、究極の目的からあなたをそらしてしまうような活動のすべてを、苦痛と結びつけなければならないのである。

今すぐ自分の連想を意識的に選びはじめることにしよう。何を快楽に連想させ、何を苦痛に結びつければいいのだろうか。その決断が最終的にあなたの運命を決めるものになる。

 

のちの痛みを連想しながら、それを回避していく行動や、のちの快楽を連想しながら現実の痛みを受け入れ、消化していく行動の積み重ねこそが、夢実現への大きなポイントとなってくるわけです。

以前の投稿「人間は二度生まれる」でもお話ししましたが、自分自身は、親や他の誰かに頼んで生まれてきたわけではありませんし、生まれてからも、親に対してこういう風に育ててくれと注文もできなかったわけです。

なので、自我に目覚め、反抗期や思春期を迎えていくときに、反抗したり反発するのは、親や周辺の人に対するというよりも、その時点の自分に対して反発しているのです。

子供の頃に受けたプログラミングを修正し、自分の個性を活かして新しい型を作っていくというのがまさに守破離の思想であり、サナギ・スピリット。
自分自身を、そして自分の人生を自分の思うように設計し、建築していくプロセスの現場監督は自分自身です。

人生は心一つの置きどころ

これは、このブログで何度も引用している中村天風さんの言葉です。

日々の刃を研くという行為は小さな痛みを伴うものかも知れませんが、後に得られる達成感や幸福感(快楽)、あの時やっておけばよかったと思う失望感(痛み)を連想しながら、サナギる時間を大切にしたいなと思う木曜日の朝でした。


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2 thoughts on “人が行動するときの動機:快楽と痛み

  1. 少々の痛みを伴っても快楽を強く求める人生、多少の快楽は我慢しても痛みを避けようとする人生、時には避けられない痛みの波を引っ被ることもあるけれど、何とかもがいてまた快楽と痛みの波の中に泳ぎ出す。
    何が快楽で何が痛みかを決めるのも自分自身の心かと思うと、この弱く未熟な心が宇宙の大きな意志とつながっていますようにと祈りたい気分になりました。
    快楽と痛みを安易なエゴで決めないということがプログラミングの修正かな?

    1. ケイさん
      いつもコメントありがとうございます。
      快楽と痛み、この考え方は人それぞれですね。
      たとえば、私が快楽や喜びを感じることが、
      ほかの人にとっては、とんでもない痛みになってしまっていることもありえますよね。

      そう考えると、人間関係の中で生きている私たちとすれば、
      おっしゃる通り、「快楽と痛みを安易なエゴで決めない」ということが大切ですね。

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