私は過去に鬱(うつ)と診断されたことはありませんが、何をやっても長続きしない。うまくいかない。自信がない。人と会いたくない。そんな自分が好きになれない。。。
などと自己嫌悪に陥り、以前、相当体調を崩したときがありました。
通勤電車に乗っていても、気分が悪くなって途中下車しないと立ってられなくなるようなことや、なんのやる気もなくなり、病気でもないのに会社を休んでしまったことが、過去ありました。
鬱の人に対して、絶対言ってはいけない言葉は、「がんばってね」という言葉だと、鬱の友人から教えられたことがあります。
その頃の私も周辺からの期待に応えようと必死で、みんなから「がんばってね」って言われてたのを思い出します。
その後、それまでやっていた仕事を辞め、自分のやってみたいと思っていた仕事をするようになってから、自信もつき、そのような状況から脱することができましたが、その時のつらい経験も今の自分の土台になっていると考えれば、今となっては、懐かしく、愛おしく思えます。
ここで、白取春彦編訳『超訳ニーチェの言葉』より一つ紹介します。
一日の終わりに反省しない
仕事を終えて、じっくりと反省する。一日が終わって、その一日を振り返って反省する。すると、自分や他人のアラが目について、ついにはウツになる。自分のダメさにも怒りを感じ、あいつは憎たらしいと思ったりする。たいていは、不快で暗い結果にたどりつく。
なぜかというと、冷静に反省したりしたからなどでは決してない。単に疲れているからだ。疲れきったときにする反省など、すべてウツへの落とし穴でしかない。疲れているときは反省したり、振り返ったり、ましてや日記など書くべきではない。
活発に活動しているとき、何かに夢中になって打ち込んでいるとき、楽しんでいるとき、反省したり、振り返って考えたりはしない。だから、自分をだめだと思ったり、人に対して憎しみを覚えたりしたときは、疲れている証拠だ。そういうときはさっさと自分を休ませなければいけない。
鬱の一歩手前のような状況の時、
当時目に止まった言葉は、「自然体」でした。
この言葉でどれだけ肩の荷が下りたことか!
焦らず、気張らず、大自然の表情が季節とともに移りゆくように、私自身も宇宙の法則に身も心も委ねつつ、小さくてもいいから昨日よりも今日、今日よりも明日と、成長していけばいいかなと思っています。
疲れたときは「疲れた」と言い、そして静かにその心と体を休ませてやれる余裕も必要かなと思います。
どんなに、過去の自分の行いを後悔しても、その過去を変えることはできません。
その過去を受け入れてはじめて、現在の自分が見えてくるし、未来の計画を立てることができると思うのです。
人を傷つけてしまったこと、
悲しませてしまったこと、
そんな自分のやった行為がゆるせない、、、
などと、
人って自分を責めがちですが、
そういう自分自身を許してはじめて、
自分自身に優しくなれるし、人にも優しくなれるような気がします。
以下、マクスウェル・マルツ著『潜在意識が答えを知っている!』より
人間の心は、他人だけでなく、自分自身によっても傷ついてしまう。自責や後悔によって自分を殴り、自己不信によって自分を打ちのめし、過剰な罪悪感によって自分を切り裂いてしまうのだ。
自責や後悔は、感情のうえで過去に生きようとしているのと同じだ。過剰な罪悪感は、すでに犯してしまった過ちや間違った考え方を、さかのぼって正そうとすることである。
感情は、現在の状況にこそきちんと役立つものだ。私たちは過去に生きられない以上、過去に対して適切な感情を抱くこともできない。過去の感情は簡単に消え去り、閉ざされ、忘れてしまうものだ。私たちは、自分を誤らせたかもしれない過去の回り道について、何らかの「感情的立場」をとる必要はない。大切なのは、現在の方向性と現在の目標なのである。
ケース・ウェスタン・リザーブ大学で実施され、「リーダーズ・ダイジェスト」誌(1997年9月号)に報告された罪悪感に関する研究結果によれば、平均的な人で一日に二時間も罪悪感を抱いているという。そうした罪悪感には、現在の瞬間に感じているものも多い。
働く母親は、仕事中、自宅で子どもと一緒にいられないことに罪悪感を抱き、昼間に子どもと家にいると仕事が十分にできないことに罪悪感を抱く。また、出張中の会社員は娘の学芸会を見に行けないことに対して罪悪感を覚える。
過去を寛大に見ることができなければ、現在や未来を楽観的に見ることもできない。だからといって、いつでも無責任でいろと勧めているわけではない。責任感は大切だ。だが、私が「内なる批評家」と呼ぶものは、ほかのどんな批評家よりもはるかに影響力があるので、これに自己イメージを踏みつけられないように注意しないといけない。
(中略)
私は罪悪の実在を熱心に信じてはいないが、もし罪悪というものがあるなら、それは自らの犯した過ち、それも人間なら誰でも犯す過ちを理由に、自分を責めて人生を無駄にしている人にこそ、当てはまる言葉ではないだろうか。
まず、自分自身を許し、すべてを受容した上で、今現在と未来に対しては楽観的に見つめていくことにより、全然視野が変わってきます。
それまでのこだわりや、わだかまり、罪悪感などの監獄から解放されて、自由に空を飛ぶ鳥や蝶のような自分を見いだすことができるかもしれません。
最後にもう一度『超訳ニーチェの言葉』より
初めの一歩は自分への尊敬から
自分はたいしたことがない人間だなんて思ってはならない。それは、自分の行動や考え方をがんじがらめに縛ってしまうようなことだからだ。
そうではなく、最初に自分を尊敬することから始めよう。まだ何もしていない自分を、まだ実績のない自分を、人間として尊敬するんだ。
自分を尊敬すれば、悪いことなんてできなくなる。人間として軽蔑されるような行為をしなくなるものだ。
そういうふうに生き方が変わって、理想に近い自分、他の人も見習いたくなるような人間になっていくことができる。
それは自分の可能性を大きく開拓し、それをなしとげるにふさわしい力を与えることになる。自分の人生をまっとうさせるために、まずは自分を尊敬しよう。
宇宙から見れば、一天体である地球。
その地球でうごめく「私」という存在は、私たちが見るありんこのようにちっぽけな存在かもしれません。
でも、確実に人や出来事に影響を与えながら存在しています。
そんな自分を尊敬してみましょう。
自分のいいところを見てみましょう。
このブログのタイトルは、「良いとこ取りの人生哲学」ですが、少し時間を割いて、自分自身の「良いとこ取り」をしてみてください。
自分も、まんざら、捨てたもんじゃないよねって思えてきますよ。
過去には寛大に、現在・未来は楽観的に!
これでいってみましょう!
ここ数年、ある症状に悩まされていますが、何科の病院を回っても良くならないので、自律神経失調症というものか・・と勝手に決めています。
私の仕事は大体1時間単位で、1時間汗びっしょりになる内容もあれば、ほとんど座って会話するだけと言うのもありますが、その1時間ってそのことに集中していて、過去に囚われたり、未来を楽しく考えたり不安に思ったりしていることってないんです。そしてその間って自律神経の症状が消えているんです。それに気づくたびに「今を生きたらいい」って思うんです。「過去は記憶の中にある現在、未来は創造された現在」って聞きましたが、案外、時間と言うのもこの世の物差し、人間が作り出した幻覚かもしれませんね。
もちろん仕事が終われば疲れはいっぱい。そんな時は反省などせず、こんなに働いてご苦労さんと自分を慰労したらいいですね。なかなか自分を尊敬まではできないのですが、甘やかすことは得意です(^^)
ケイさん、コメントありがとうございます。
私も「時間」とか「現在・過去・未来」についてたくさん考えてみたことがありますが、「過去は記憶の中にある現在、未来は創造された現在」って言葉、なんだかすごく納得してしまいました。
目には見えないけど、存在している「時間」。
その概念自体、確かに人間がつくり出した幻覚かもしれませんね。
自分自身を親のような目で見つめる自分自身でありたいなと思う今日この頃です。