プライド:知足と欲と自分軸

やってきました!
暑く熱い夏が。

毎晩熱帯夜が続く東京ですが、私の周りでもけっこう体調を崩している人がいますが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか。

6月は一度も四国に帰られませんでしたが、今日1ヶ月半ぶりに帰ります。
海にも行きたいし、山にも行きたいけれど、お盆に向けてのお墓の掃除、家の手入れ、少年野球、、やることてんこ盛りで、さてどんな感じかな。

7月もあっという間に前半が終わろうとしていますね。
2週間ぶりの更新となった今回のタイトルは「プライド:知足と欲と自分軸」です。

「プライドを傷つけられた」とか、
「プライドが高い人」とか、
「おまえにはプライドがないのか」
などの表現をよく聞きますが、今回は、この「プライド」について考察してみたいと思います。

今まで読んだ本の中で、プライドに関して、一番わかりやすく書いてあった『7つの習慣 最優先事項「人生の選択」と時間の原則』から引用してみます。

「プライド」(自負心)という言葉は、「すばらしい仕事ができたことに誇り(プライド)を感じている」とか、「子供がすばらしい仕事をしたのを自慢(プライド)に思う」と言うように、誰か(または何か)に対して深い満足感や充実感を表わす言葉である。しかしそれは、人生にひびを入れてしまうようなパラダイムの言葉でもある。

「尊大な(prideful)」という言葉を考えれば、この言葉の否定的な意味が理解できるだろう。尊大な人は、常に、他人に勝とうとしているからだ。作家のC・S・ルイスは次のように述べている。

プライドは、所有物から得られる喜びではない。それは、他人より多く所有しているという喜びから生じるものである。他人と比較してはじめて感じられるものである。つまりそれは、「他人よりも優れている」という喜びである。

ある程度のニーズと脳力が満たされているとき、プライドがどのような影響を及ぼすか考えて欲しい。

・生きるうえでのプライド──収入が自分のニーズに合っているかどうかに関心があるわけではない。他人よりも多くのもの(金)を持っているかどうかに関心がある。他人よりも外見(髪型・服装・体格)がいいかどうかに関心がある。

・愛するうえでのプライド──友達の数と名声によってどれだけ自分の価値が高まるかを考える。あるいは他人からどれだけ賞賛が得られるかを考える。

・学ぶうえでのプライド──何を知っているかではなく、どんな学歴や社会的地位が得られるかに関心がある。

・貢献するうえでのプライド──与えることそのものに意義を見いだすのではなく、他人と比べて自分が多く与えたかどうか、そして、周囲の人が自分を認めてくれたかどうかに関心がある。

 

自分が何を持っているか
どんな長所があるか

という視点ではなく、
いつも他人と自分を比較しながら感じている感情、それが「プライド」

この思考習慣はなかなか崩すことは難しいことです。

でも、この習慣を一度崩してしまうと、それまで見ていた世界とは全く違う世界が見えてきます。プライドを手放すことで、逆に自分軸がしっかりし、安定した自転運動を基盤とする生活を送ることができるようになります。

私がこの「プライド」に関して、最も学んだ師匠は、父、そして叔父(父の弟)です。
(「異国の地に骨を埋めた親愛なる叔父」参照)

2009年11月に他界した叔父は、とても謙虚でありながら、自分軸がぶれない人でした。
叔父が人と対するとき、極端な話、それが例え大統領であろうが、ホームレスであろうが、全く同じスタンスなのです。

私はその生き方を目の当たりにしたときに、プライドが高く、いつも周りに影響されながら自身の立ち位置を決めていた自分の視点や生き方自体を恥じました。

親子ほど年の離れた私の話に耳を傾け、いつも尊重してくれました。
頭ごなしの主張や自分の価値観の押しつけは一切せず、それでいて芯のしっかりした生き方をしていた人でした。

そこには、プライドというものは微塵も感じられず、川の流れのような、自然体で生きる哲学がありました。

もう少し同書から引用してみます。

7つの習慣 最優先事項「人生の選択」と時間の原則
プライドは、心の中に宿っている最も手強い寄生虫といえよう。プライドの高い人には、深い喜び、満足感、本当の安らぎは訪れないだろう。なぜなら、自分より格好がいい人、自分よりもお金を持っている人、自分よりも友達が多い人、自分より大きな家にすんでいる人、自分よりも新しい車を持っている人がいれば、満足感や充実感が得られないからだ。

プライドという感情は知らない間に進行する。なぜならプライドは意義と目的を汚染してしまうからである。良心を鈍らせたり、無視したり、その気持ちを押しのけたりしてしまうのだ。C・S・ルイスはプライドについて次のようにも述べている。

プライドは精神的ながん細胞である。それは、愛情を歪め、満足感や常識すらも食いつぶしてしまうものである。

やがてプライドは、憎しみ・羨望・争いを引き起こしてしまう。
プライドが高く尊大な人は、はしごが正しい壁にかかっているかどうかよりも、他人と比べてどれだけはしごを登ったかによって安心を得ようとする。彼らは、自分よりも下の位置に人がいるのを見て、自分に価値を感じるのである。彼らがめざしているのは、ただ前進することである。それが間違った方向に前進しているかどうかということは二の次である。

 

また、プライドに関しては、尊敬する父からもたくさん教わりました。

私は小学生の頃から背が高いほうでした。

父からよく言われたのは、
「おまえは背が高い。
それだけで他の人から見たら、いつもエラそうに見える。
だから、人一倍謙虚でなければならない」

「しかもただの謙虚だけではだめだ。
相手の立場に立つことができる理解力を持たなければならない」

父は、仕事でほとんど家にはいませんでしたが、たまに帰ってきて話す言葉や、送って来てくれる手紙にはとても重みがありました。

同書からさらに引用してみます。

上から下を見下ろすだけでなく、下から上をうかがい見ることによってもプライドは生まれる。全米国農務長官であり宗教家でもあったエズラ・タフト・ベンソンは、次のように述べている。

ほとんどの人は、「プライド」とはトップにいる人(例えば、裕福な人や教養のある人)が他人を見下す所業と考えています。しかし、それ以上に蔓延しているのが、下の者が上の者を見るときのプライドです。それはさまざまな形となって現われます。例えば、あら探し、噂話、中傷、不平、嫉妬、羨望、感謝すべき人や賞賛すべき人への無視、他人に対して冷たくしたり、ねたんだりする態度となって現われます。

プライドは「欠乏マインド」の本質であり、安らぎを乱すものである。プライドは、外見的な物事に反応するニセの廉潔さを生み出す。その代償の大きさを考えてほしい。誰が最も多く持っているとか、誰が最も多くのことを成しとげ、誰が最も良く見え、誰が町の最もいい場所に住み、誰が最も大きな会社で働き、誰が最も多くのお金を稼ぎ、誰がより価値ある仕事をしているかということで悩むのに、どれだけの時間とエネルギーを費やしているだろうか。競争の悲鳴が良心のささやきよりも大きかったら、重要事項を優先するうえでの悪影響はどれほどのものになるだろうか。

プライドの毒を溶かしてくれるのは「謙虚さ」である。私たちは孤島に住んでいるのではないということを悟る謙虚さ、自分の生活は他人の生活と切っても切り離せないようにつながっているということを悟る謙虚さを持つことだ。自分自身が今まで囚われていた競争心や、さまざまな習慣に縛られないことだ。

 

老子の有名なことばで「知足」という言葉があります。

読んで字のごとく、

足るを知る

大辞泉によると、
《「老子」33章の「足るを知る者は富む」から》
みずからの分(ぶん)をわきまえて、それ以上のものを求めないこと。分相応のところで満足すること。
という意味です。

もうすでに「私は自分の必要なものをもう十分に持っている」ということを理解するということです。
(「Win-Win:豊かさマインドと欠乏マインド」参照)

プライドが高いとどうしても欠乏マインドの視点から物事を見てしまいます。
常に何かが足りない欲求不満状態を引きずりながら生活するとストレスが溜まり、体調も崩しがちです。

だからといって、すべての欲を捨ててしまうのかというと、そうではありません。

人間に欲やプライドがあって当然だし、それ自体は悪でないので、それを否定することはできません。
人生をより良くしていきたいという欲もあるし、もっと勉強したいという向上心も欲の一つです。

プライドを少しずつ手放していくことで、その欲自体を「貢献したい」という方向に展開していくことができます。
「自分が自分が」という欲を「人のため、社会のため」という欲に転換していくことができるのです。

また、
プライドを手放すことで、人間関係において、傷つくことがなくなります。
はじめにも書きましたが、
よく、
「プライドを傷つけられた」
と言いますが、
そのプライド自体を持っていなければ、傷つけられることもありません。

そう、頭ではわかっているんです。

私自身、何一つエラそうなことは言えませんが、プライドを一枚一枚はぎ取って手放す作業をしていきながら、少しずつ自分軸が見えてきたように思います。

子どもに対しても妻に対しても、また上司や同僚、友人に対しても、自分の中の変なプライドを手放すことで、とてもいい人間関係を築けていけると感じる今日この頃。

自分の周辺で起きている事象は一つの現象としての事実。
そこにはなんの感情も評価もありません。

それをどう認識し、どのような感情を持つかは、、
自分次第。

要は、同じ環境や現象の中で、どう幸せに、そして快適に、豊かさマインドを持って人生を過ごすかが問題。

と、ふとそんなことを考えながら、朝食のリンゴにかぶりつく金曜の朝でした。

今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

今日も良き一日をお過ごしください。


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4 thoughts on “プライド:知足と欲と自分軸

  1. おもしろい話ですね。自分としては変なプライドはあまりないつもりなのですが、
    思い出したのは「一寸の虫にも五分の魂」ということわざ。このどうでもいいような
    五分の魂のせいで買収がうまく行かなかったり、鶴の一声で企画がどんでん返しを
    見たりと、実にやっかいな存在ですね。弱者の魂をみくびってはいけないし、自分に
    権力がある人ほど一挙手一投足が毛虫のプライドから来ていないか確認する必要が
    ありそうですね。それを自覚した上で、自分や周囲を昇華させるための原動力として
    利用するのが自在に飛びまわれるバタフライレベルのプライドでしょうか。

    1. はぐれさん、とてもおもしろい視点でのコメント、ありがとうございます。
      毛虫のプライド、バタフライのプライド、、
      なるほど。
      結局は自己中心なのか、そうでないのか。
      という話になりそうですね。
      なので、プライドも、
      エゴから来るプライドと、
      そうでないのとに分けられますね。

      示唆に富んだ内容、ありがとうございます。

      また今度お会いするのが楽しみです。

  2. 『器量』という言葉が、私は好きです。
    自分自身の器を充たして行く人生、自分自身を生きることに意味があると思うから。
    自分の周囲で起こることに反応させらるのでなく、自分で作り出した感情によって人生を味わう。。それこそ、より人間らしく、本能で動くのでなく、もっと自由なよりレベルの高い在り方と思うのです。
    人生の価値というのは、周りの人の評価によるものでなく、つまりは自分が『どう感じたか』ということで決まるのではないかと思う今日この頃です。

    1. かおるさん、「器量」という言葉、いいですね。
      価値の視点が、人の評価なのか、自己の満足感なのかによって、人生が全く違ったものになりますね。

      時計と羅針盤(コンパス)と感情」でも書きましたが、最終的に自分は、「どんな感情を抱きたいのか」というところに着目すると、今やるべきことが見えてくるのかもしれませんね。

      いつも深〜いコメント、ありがとうございます。

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