本質は一つ:光と影、幸せと不幸

ここ数日、全国的に比較的暖かい日が続いています。
Twitterなどでも、梅の花の便りがあちこちから届いてます。

と同時に、「あ〜、またこの季節がやってきた!」とか「春は大好きだったのに〜」などの愚痴が聞こえてきています。
そう、花粉症。

今のところ私は花粉症ではありませんが、周辺にあまりにも多いので、油断してはいけないなと思わざるをえません。

本来、花粉は単なる異物であって、病原菌でもウイルスでもありません。
例えば鼻の粘膜に花粉が付着したとしても、鼻水が一筋流れればそれでいいわけです。
なのに、免疫異常が原因で、単なる花粉に対して過剰反応することによって、正常な細胞までやっつけてしまうから問題なのです。

こう言うことを考えると、やはり健康って大事ですよね。
本来人間に備わってる自然治癒力や免疫システムが、正常に働けるような身体にしするためにも、食事、睡眠、運動など、生活習慣から見直していかないと!
と思う今日この頃。

あ、さて、今日のお題は、「本質は一つ:光と影、幸せと不幸」

以前Twitterで次のようなつぶやきをしたことがあります。

光が当たれば影ができる。幸せを実感するのは不幸せなときがあるから。愛が生じると同時に不安も生じる。いつか愛が終わってしまわないかと。でも愛が永遠に続いたとしたら、その愛を大切にしなくなるかも。この両極が人生の面白みと情緒を生み出してるんだな、これが。4:31 PM Apr 7th, 2010 via Echofon


上下、高低、表裏、抑揚、寒暖、陰陽、清濁、有無、、

どうも宇宙はこんな感じで、極と極、そしてその間で成り立っているようですね。

ここで大事なのは、例えば光や幸せが善で、影や不幸が悪か?
というと決してそんな簡単な問題ではないということです。

以前「奇跡のリンゴは宇宙の法則によって」でも紹介した石川拓治著『奇跡のリンゴ』にも書いてありましたが、益虫や害虫も、人間が勝手に定義づけているだけで、実は大自然のバランスをとるにはどちらもとても大事な役割があって存在していると思うのです。

この辺の話題で、小林正観著『100%幸せな1%の人々』で面白い表現をしている箇所があったので、少し引用してみます。

「幸せと不幸」について<中略>
「幸せと不幸は『たまご構造』。それも、ゆでたまごではなく、生たまごだ」というものです。

例えば、「おいしい」という概念の前段階として、必ず「空腹だ」という概念が存在します。「空腹」という現象が存在しなければ、「おいしい」という現象が存在しない。同様に、「のどが渇いた」という現象がなければ、「のどの渇きが潤せた。嬉しい」という現象が存在しません。

さらに考えるに、「空腹であればあるほど」おいしさは増加する。逆に、空腹が小さいものであれば、あきらかにその量は連動しています。

「おいしい」という「幸せ」を味わうためには、どうやら「空腹だ」という「不幸」を味わわねばならない、というのが宇宙構造のようです。

では、「空腹」という現象と「おいしい」という現象は、ここに独立しているわけではないのか、と思うようになりました。「空腹」と「おいしい」は「1+1=2」というかたちで存在しているのではなく、「半分と半分、1/2+1/2=1」として存在しているように思えます。「空腹」と「おいしい」は足して1つになるのであって、独立した現象ではない。「空腹」と「おいしい」はワンセットであり、「空腹」は「おいしい」という「幸せ」の前半部分の現象だ、とも考えられるのです。

<中略>

一般的な「不幸」が「幸せ」の前半分である、という構造は、実によく「たまご」の構造に似ています(鶏卵を想像してもらうとわかりやすいと思います)。
「幸せ」を味わうためには(おいしさを味わうためには)、「不幸」と一般的に思われること(おいしさに対する「空腹」)が通り過ぎたところにしか「おいしさ」が存在しません。空腹=たまごの白身、おいしさ=たまごの黄身です。
「空腹」(=白身)の中に、「おいしさ」(=黄身)が抱かれている。

しかし、この「たまご構造」は「生たまご」でなければなりません。生たまごは、割って器に入れ、シャカシャカとかきまぜてしまうと、境界線がなくなり、みごとに溶け合ってしまいます。1度かきまぜたら、それを白身と黄身に分けることはできません。なぜなら、白身も黄身も、本質は同じだからです。

 

寒い冬があるから、暖かい春を恋しく想い、
暗い夜があるから、明るい朝が待ち遠しいし、
嫌な雨が降るから、晴れた後の虹が綺麗に見える。

悲しいことがあるから、嬉しいときに感謝でき、
苦しいことがあるから、楽しい時を忘れないし、
辛いことがあるから、幸せな時を実感できる。

この世の中、良いことしかない!なんてあり得ないですよね。
良いことしかない!ってことは、良いことさえもないってことです。
悪いことがないので比較しようがないから。

しかも、65億の人類すべてが幸せだと思えることも存在しないはず。
もちろん、逆も言えます。

ほかの人から見て、どんなに不幸で苦しい状況にいようとも、本人が「幸せ」だと思っていれば、その人は「幸せ」なのです。

健康のありがたみも、病気になったとき初めて気付いたりするものですが、たとえ病気だとしても、イコール不幸だとは限りません。

引用文にもあったように、健康も不健康も、幸せも不幸も、光も影も、全部ひっくるめて本質は同じだし、一つなんですよね。

表裏一体、一体不可分。

病気になってはじめて健康であることへの感謝を学習でき、
何かを失ってはじめて失ったものの存在価値を知り、
不幸になってはじめて幸せの意義を語れるわけです。

例えば、雨が降っていても、実は分厚い雨雲の向こうには太陽がさんさんと輝いていたりします。

ある側面からだけ見ていると、大事なことを見失いがちになります。
宇宙、自分の人生、全部ひっくるめて善。本質は一つ!

こう考えると、すごくおおらかな気持ちになれる気がします。

以前も書きましたが、
大きな耳、小さな口、優しい目で、あらゆる事柄に接することができるようになるのではと思うのです。

と、まぁ、慌ただしく時間だけが過ぎ、なかなかブログの更新もままならないまま週末を迎えましたが、今日は久しぶりに静かに自分を振り返ることができた朝となりました。
これまた、感謝!

今回も、最後までお付き合いくださりありがとうございました。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ  ポチッと!


2 thoughts on “本質は一つ:光と影、幸せと不幸

  1. 記事内のさな兄ちゃんのツイート、よ~く覚えています。

    丁度気持ちの中になにか消化できない事柄を抱えていた時だったかな。
    そのちょっぴり辛い出来事を帳消しに出来るような「ちいさなしあわせ」を
    日常の中で必死に探している時だったので

    とてもココロに響いたのでした。

    よくね。気持ちが落ち込むと「ちいさなしあわせ探し」が始まるの。

    子供たちがおっぱいをコクコクと飲んでいる頬の動き。

    道を歩いていてほんのり金木犀の香りや梅の香りが鼻をかすめた事。

    ココロに響いた音楽に出会った時。

    愛しい人のぬくもり。

    そんな幸せな瞬間を探したり、思い出したりする。

    毎日のちいさ~な幸せを見逃さないために。
    ちょっとだけ辛い事や悲しい事があるんだなぁ。って思います。

    そして、傲慢な自分の鼻をポキッて時々折るために(笑)

    素敵なブログをありがとう♡

    1. いずみさん、おはようございます。

      あの内容をつぶやいたころ、私自身も正負の負、苦楽の苦の部分ばかり見えていたときで、それにつまずきかけていました。

      まさにいずみさんのおっしゃる「ちいさなしあわせ」探しを一生懸命していたのを憶えています。

      でも、その「負」とか「苦」も受け容れてみようとふと思ったのです。
      そしたらなんだか気持ちがとっても楽になり、あのツイートが出てきたんです。
      「負」があるから「正」が存在できるし、「苦」があるから「楽」しいことを実感できるんだなと。

      しあわせを感じられるのも、影の部分があるからだとわかったとき、その影も光もぜーんぶひっくるめて抱きしめちゃおう!と。
      その両極が人生の面白みを生み出してるってわかったら、影だけに焦点を合わせて一人もがいてた自分が可笑しくなってきたんですよね。

      「傲慢な自分の鼻をポキッって折る」って面白い表現でした(笑)
      まさにそんな感じです!

      いずみさん、ステキなコメント、ありがとうございます^^

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です