なかなか暖かい日が長続きしないまま、気がつけば3月も終わろうとしていますね。
昨日から仕事で大阪に来ておりますが、やはり東京に比べて暖かく、コートは必要ないと思えるくらい。
今日はこれから仕事に向かいますが、ひょこっと思い立ち、自分の思考の整理のためにも、久しぶりにブログをしたためてみようと思います。
良いとこ取りの人生哲学
これはこのブログのタイトルの一部です。
2年以上前の投稿「良いとこ取りの人生哲学とは・・・」で簡単に投稿しましたが、ここに来て少し思うところがあり、再考してみようと思います。
「良いとこ取り」なんて言うと、都合のいい言葉に聞こえますが、このブログを読んでくださっている皆さんも実はそうやって生きています。
たくさんの書物を読み、人と会い、講演会を聞いたりしながら、良いとこ取りで吸収しているはずです。
そしてそれが自身の思考や行動の源となっているに違いありません。
そもそも人体の消化吸収システムがそうなっています。
口から入ってくるものは、厳密にいうと良いものばかりではありません。
中には防腐剤や重金属、あるいは少々の毒物も入っているかも知れません。
しかし、人体は上手くできていて、それらを処理し排斥する機能があります。
健康な体であればあるほど、免疫機能は高く、自分の体にとって良いものを選び、不要なものを捨てるようになっているのです。
人体が、口から入るものでできているように、わたしたちの心は、目や耳などの五感を通して入るものでできています。
私たちを取り巻く環境も良いものばかりではありません。
有害なもの、不要なものも少なからずあります。
その中から、「良いとこ」を取捨選択しながら、人格を形成していくのが「良いとこ取りの人生哲学」
それは万人に共通する部分もあれば、その人独自の栄養素もあるでしょう。
人は、生まれてから親や先生、そして周辺の人の影響を大きく受けながら育ちます。
幼少期に造られる人格への影響は多大なるものがあります。
人は、他の動植物とは違い、親かそれに代わる存在がないと育ちません。
しかし、その親や師匠のすねにかじりついて一生を終えて良いかというとそういうわけでもありません。
「成長:今再び「守破離」を考える」でも投稿しましたが、親や師匠に依存したままでは成長、自立はできません。
ここでも守破離の観点から見ていきたいと思います。
親やそれ代わる存在がないと生きていけない幼少期は【守】に当たります。
親のいうことを守りながら、そのルールに従っていかなければ、生きていけないわけです。
たとえば、幼少期に親から「カラスは白い」と言われ続ければ、それを信じて疑わないで、ある時期まで成長していくでしょう。
それは親子だけではなく、師匠と弟子、上司と部下、教祖と信者などの関係にも言えます。
その後、他の人とは違う自分に気づきはじめ、自我に目覚めていきます。
まさに【破】です。
自分のアイデンティティを探し、そして確立していくプロセスに突入します。
この「破」の時期がサナギ(s・a・n・a・g・i)のプロセスです。
親やその周辺の人たちから刷り込まれて出来上がった自分とは違う、真の自分に出会っていく時期です。
「カラスは本当に白いのか?」の疑問がわいてくる瞬間。
これが、反抗期や思春期に観られる状況で、親や師匠、上司の立場から観れば、それまでは子どもや弟子たちを上手くコントロールできてたのに、言うことを聞かなくなる、そんな季節です。
この段階で、親が子どもを縛り付けたり、親自身の価値観や枠に収めようとすると、様々な問題が生じてきます。
自我に目覚め、殻を破ろうとしている子どもや弟子、部下に対して、親や師匠がその圧倒的な知識、経験、体力などを利用して圧力をかけてしまうと、その関係性に依存や破壊を招きかねません。
この辺に教育のポイントがあると私は思っています。
この守破離の法則を知り、実践している親や師匠、上司が真の親であり、師匠であり、上司であると言えるのかも知れません。
私自身、長男として生まれ、親の言う通りに生きようとした過去があります。
高校時代、「医者はいいぞ」と言われれば、医者を目指そうと思い、「これからの時代は弁護士だ」と言われれば、本気で弁護士になるためにはどうしたら良いかを考えたものでした。
でも、本当の自分の気持ちを見つめたときに、医者にも弁護士にもなりたいと思っている自分はそこにはいませんでした。
地を這い回るイモムシで生まれたけれど、自分自身の真の姿は、実は花畑を飛び回るチョウかも知れないということに気づき、自分を生み変えていくという本能が、人間にも既に備わっているのでしょうね。
このようなプロセスを経ながら、親離れ、師匠越えは始まります。
これが【離】です。
自分のアイデンティティや型を確立しながら、精神的にも物理的にも自立していく時です。
たとえば過去に、親や師匠や上司に抑圧されたという記憶があったとします。
しかしこの時に、そういう記憶さえも、肥やしや踏み台にし、受容しながら乗り越え、さらにその過去に感謝できるかどうかで、自立できるかどうかが決まってくると思います。
イモムシの時代があったからこそ、春の大空を舞う心地よさを実感できるし、蜜の甘さに酔うことができると思うのです。
以前も引用した記憶がありますが、
ルソーの言葉に、
人間は二度生まれる。
一度はこの世に生を受けて。
もう一度は人間となるために。
というのがあります。
自分を自分で生み出す。
人間となるために。
先週、6年ぶりに妻と4人の子ども全員を東京に呼んで、家族旅行をしました。
この期間は、どうしても子どもたちに厳しくしてしまう自分を諫めながら、親としての私はこの子たちの肥やしになり土台になるためには、何をすれば良いかを深〜く考えるチャンスでもありました。
この子たちがどんな人に成るかは、親である私が決めるのではなく、子どもたち自身が決めること。
親としての私は、その応援団であり、踏み台なんだなと実感したのでした。
さ、今日もお仕事がんばります。
今回も最後まで読んでくださってありがとうございます。
よき週末をお過ごしください。
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さなさん、おはようございます。
守破離って言葉は意味深いですね。人生そのものを一言で言い表していると思います。家の子供達は、まだまだ ”守” の域ですが、時々少しはみでて”破” に顔を出します。その時はこにくったらしいと思いますが、この時期こそ子供と真正面から向かい合って、接してやりたいと思います。まだまだ、子供と一緒に、夫婦で家族で成長していきたいものです。
先生、いつもありがとうございます。
うちも小学生から高校生まで、子どもたちに日々教えられることがあります。
男親として、特に男の子たちは、先生のおっしゃる通り、真っ正面から向き合っていきたいなと思っております。
日々成長ですね。