秋の空がますます高くなり、夕焼けにアキアカネが似合う季節になってきました。
さて、今日はまたまた少しお堅いお話ですが、その前に、
私とインターネットとの付き合いは、仕事や趣味でかれこれ14年ほどですが、つい数年前まで、ブログやSNSなどは全く触れたことがありませんでした。
5年ほど前に友人からMixiを紹介されて入会はしましたが、結局まったく見に行ってなかったので、いつの間にかアカウントは消されていたくらいです。
そんな中、仕事上やむを得ず何年か前からブログを20個くらい作ってきましたが、本格的に自分のためのブログとして始めたのは、去年11月にスタートしたこのサナギ・ブログが初めてでした。
また、「ミニブログ」という能書きでツイッターのことを知り、去年の8月に試しに一つのアカウントを作ってみたのでした。
始めてみたはいいものの、何をつぶやいていいのかまったくわからず、ましてや見も知らない人になかなか話しかけられないし、、というか、話しかけ方すらわからない状態でした。
だから最初は、「眠たい」とか、「うーん。そろそろ寝るか!」とか、つまらん独り言ばっかりつぶやいてた気がします。
そうこうしているうちに、このブログと連動して何かができるかなと思い、去年12月に@sanageeというアカウントを作ったのです。
で、本格的にツイッターの世界に入ってみて強く感じたことは、次の5つでした。
①リアルタイムで情報が速い。
②良い言葉や、ストーリー、写真、動画などの情報がたくさん。
③人の数だけ価値観がある。
④時空を超えて個と個がつながる事ができる。
⑤波長の合う人が集う場ができる。
ということでした。
特に今回は、③の「人の数だけ価値観がある」というところをクローズアップしてみようと思っています。
人の数だけ価値観があるって、当然といえば当然です。
ツイッターのタイムラインを見てるとそんな当然なことがとても新鮮だったのです。
たとえば、一つのニュースに対して、ある人はとてもポジティブにつぶやき、ある人はネガティブに切り捨て、またある人は、自分だったらこうしていたのにと意見を述べる。。
それが140文字以内にコンパクトにまとめられており、とても簡潔なので、それぞれの人のバックボーンともいえる価値観が手に取るようにしてよくわかるのです。
私たちは、一つの事象に対して、自分が歩んできた歴史で培われた価値観や思考様式で物事を見ています。
つまり、人それぞれ見方が違うのです。
私たちの目の前に眼鏡やフィルターがあるということなのです。
今回は、このフィルターについて考察してみたいと思います。
そこで、ハイラム・W・スミス著『もっとも大切なこと』から引用してみます。
あながた自分にとってもっとも大切なことをつきとめてその内実を明確にしたとしよう。また、心の奥底に秘めた価値観をあなたの人生でいっそう実り豊かに実現する方法に関して何か特別な計画を立てたとしよう。あなたはすでにそうした計画を実行に移し始めているかもしれない。しかし計画に従った後ですら、幸福な人生を送っているとは言えず、長年の悪癖の一部を変えることに相変わらず困難を感じているかもしれない。
では、何が問題なのか?どこがまずかったのだろうか?ここであなたの「思いの窓」を紹介しよう。たいていの人がそうであるように、あなたも自分の個性のほとんどが知られていない極めて重要な部分について、ご存じないかもしれない。それはあなたの意志決定の多くや、さまざまな状況での行動様式に影響を与えているものだ。「思いの窓」は目に見えないため、実際にそれを見ることはできない。しかし私たちはみんな一つずつこの窓を持っている。この窓は、比喩的に言うなら、あなたの頭と直結していて、顔の前にかかっている。あなたが動くたびに、その窓はあなたとともに動く。あなたはその窓を通して世界を見る。そしてあなたが見るものとは、このフィルターを通して戻ってきたものなのだ。
よく「ポジティブ思考」「ネガティブ思考」という言葉を耳にします。
これは習慣や癖のようなものとして、私たちが生活していく中で知らず知らずのうちに現れてくるものです。
例えば、「交通事故に遭ったけど命には別状なかった」という事象に対して、ある人は、「あぁすべての計画が狂ってしまった。もうこれで僕の人生おしまいだ!」と考える人もいれば、「命が助かってよかったー!私はなんて幸運なんだろう!」と口にする人もいるでしょう。
これがまさに「思いの窓」というフィルターの違いです。
同書から続きをもう少し。
あなたの「思いの窓」は常にあなたとともにあり、あなたが目にするものーー毎日渡っていかなければならないデータや情報の海ーーをフィルターにかけ、周囲の世界に対する理解を助けている。この窓は、他人に対する見方、状況の読み方、自分自身に対する感情などに影響を与える。そして、「見」たり認めたくない情報がある場合、あなたは「思いの窓」というフィルターを使って、それを排除してしまうのだ。「思いの窓」の油断できない点は、それが現実を反映しているいないにかかわらず、あなたが断固として事実だと信じている認識に基づいているということだ。例えば、あなた自身の経験や社会的評価を通じ、あなたは自分のことを、頭が切れる、愚かだ、美しい、醜い、有能だ、無能だ、創造的だ、あるいは鈍いなどと考えているかもしれないーーその判断が事実かどうかは別にして。しかも、あなたはその判断を信じているので、疑いを持たず、その判断どおりにふるまうのだ。
このように、「思いの窓」は私たちの行動やふるまいに対して強い影響を及ぼす。だからこそ、私たちの行動様式を変えることは、ときとして非常にむずかしい。頭では、例えば喫煙のような行為が有害であることを知っていながら、「そんなことは自分には起きない」と強く思い込むことで、人生に必要な変化が生まれにくくなるのだ。「思いの窓」に関する誤った認識は、深く秘められた価値観により即した行動をとるための努力に対して大きな障害となり得るのだ。
以前の投稿「メンタル・ブロック:心の壁を打ち破る」でも書きましたが、
「こんな大きな商談、俺にはできっこないよ」
「あんなイケメン、私のことなんか振り向いてくれるはずがない」
と、行動に移す前から、ダメと決めつけてしまっていることってありますよね。
これがまさに「思いの窓」というフィルターにへばりついた「心の壁」です。
自分で自分にリミッター装置を付けてしまっている、一種の思い込みです。
これは、ありのままの自分を見ているのではなく、「思いの窓」というフィルターを通して自分自身を見ているに過ぎず、分厚いレンズによって屈折されてたり、色眼鏡になっている可能性があるのです。
こういう思考や行動様式は、長年の習慣によって身についてしまったので、そう簡単にとることはできないかもしれませんが、不可能な話ではありません。
習慣を変えていくことによってそのフィルターを限りなく透明に近づけることができるはずです。
さらに同書から。
自分の「思いの窓」を通して世界を眺めていることや、その窓が絶えず私たちの経験をフィルターにかけていることに気づくまで、私たちは人生を「あるがまま」に見ていると思い続けるだろう。しかし自分の「思いの窓」が現実ーーつまり、そうであったらよかったのにとか、そうあるべきだろうというのではなく、あるがままのーーを正しく反映していない限り、私たちが思い違いをし、行動を成功させるチャンスをつぶしてしまう可能性があるのだ。
私たちにできるもっとも重要なことの一つは、自分の「思いの窓」からできるだけ曇りをなくし、人生において現に起きていることを正しく反映させることである。これは、私がみなさんにお願いした中でもっとも難しいことかもしれない。あなたはおそらく、自分のプライドを抑え込み、行動の大部分に影響を与えるような「思いの窓」を持っていることを、そして、自分が支えとしているものの一部が間違っていることを自ら認めなければならないのだ。そうすることで、あなたは進歩を妨げかねない誤った自己認識や自己陶酔から自らを解き放つための重要な第一歩を記すことになるだろう。
前回の投稿「理解してから理解されるということ」で述べた、まず相手のことを受容し理解することにより、そのフィルターはより透明度を増していきます。
ましてやより多くの人と接することによって、その「思いの窓」の雲りはどんどん晴れていくに違いありません。
その分、自分の器が大きくなったということです。
「こうでなきゃいけない」
「こうあるべきだ」
は、少し横に置いておいて、
自分以外の人ばかりではなく、自分自身に対しても、限界や能力の規定をすることなく、ありのままの自分を見つめていくことができるようになってはじめて「自覚」したと言えるのかも知れません。
近頃マイケル・サンデル教授のハーバード白熱教室が話題になっていますが、彼のアプローチはまさに学生たちの「思いの窓」の曇りを取り去る手助けをする手法です。
一つの価値観に凝り固まることなく、あらゆる角度から物事を見るという習慣。
例えば対立する二案があったときに、さらにそれを凌駕する第三案を導き出すという柔軟な思考を育てることこそ、よりよい社会を築いていくことができるのではないかと考えます。
今回も少しお堅いお話になってしまいましたが、最後までお付き合いくださりありがとうございました。
お兄ちゃん。
このお話は、私もお仕事を通してよく感じます。
人の話しを、どれだけ注意して聞いても
自分のフィルターを外せているのかは謎です。
なぜなら、自分の感性がないと
人に共感できないから。
だからこそ
対話が必要なのですね。
フィルターを外そう、外そう、と意識しながら対話して
はじめて少し外れるのかもしれません。
そうして、初めて相手は理解してくれようとする気持ちを感じて
心を開いてくれる。
これは一人のときも同じ。
自己対話が堂々巡りに陥りやすいのは
フィルターの中で対話してるからだよね。
そこに、いろんな人の言葉や可能性を取り入れて
今まで信じて積み上げてきたお城を壊してみたら
すごーく見晴らしがよくなる。
せっかく積み上げてきたお城を壊すのは勇気がいるけれど
土地はひとりにひとつしかないのだから
体が大きくなってお城が窮屈に思ったり
もっといいお城を建てようと思ったら
土台から壊すしかないのね。
くもった窓を磨くつもりが
お城を壊す話しになっちゃった。
窓を磨いたら
それが自分に合ったお城なのか
どんな形をしているのか
いままでよりも、ずっとはっきり見えるね^^
それが、壊す勇気をくれるのかも。
fuuちゃん、いつもコメント、感謝です。
すみません。私の言葉足らずだったかな。。
実は、「思いの窓」というフィルターは外す必要はなく、フィルターの曇りや目詰まりをきれいにしていくといった表現の方が分かりやすいかもしれない。
フィルター自体は、ある事柄に対する判断基準や、自分自身の価値観、原則なので、それを取り除いてしまったら、自分自身のアイデンティティがなくなってしまうよね。
なので、そのフィルターである価値観や原則に磨きをかけ、詰まっているゴミ(先入観や思い込み)を取ってあげることが大事なんだと思うよ。
自己対話ってホントに重要だよね。
自分のことって、わかっているようでわかっていなくて、誰かとの対話や自分自身との対話によって、くっきり浮かび上がってくる。
敢えて、新しい価値観を自分にぶつけてみると、自分でもよくわからなかった価値観が明らかになっていく時ってあるよね。
そしてそういう自分を一旦受け入れて、こうありたいという理想の自分に近づけていく。
それが曇った窓をきれいにする作業であり、フィルターの目詰まりを取っていく作業なんだね。
今回も示唆に富んだコメント、ありがとう!
お兄ちゃん。
フィルターの目詰まりだという例えで
ぴん♪ときました^^
私ね、なんで外すことを考えたのかというと
フィルターや窓の枠のことを考えていたからかもしれない。
枠が小さいと見える範囲や濾過する量も限られてしまうから。
でも、またこれは別の話しだね。
似てるけれど、別だと分かったの。
ありがと^^