今日の内容はタイトルからして少し硬そうな予感がします。
でも、私自身の頭の中がそんなに硬くないので、難しいことはあまり語りません。
サラッと読んで下さればと思います。
今、「哲学」がブームになってます。
今までビジネス書や自己啓発関連の書籍が平積みされていたところに、たくさんの哲学関連の書籍が並ぶようになりました。
中でも『これからの「正義」の話をしよう』や『超訳ニーチェの言葉』は異例のベストセラーとなっています。
世界的な経済危機や、日本国内の政治不信など、「不安」な世の中ほど哲学や宗教に関心を向ける人が増えるようです。
さて、この長い人類歴史、単なる個人の価値観の違いから、宗教の教義や思想、政治、イデオロギーの壁、あるいは宗教と科学の対立、唯心論と唯物論のジレンマなど、二人だけの人間関係から世界規模の国家間問題に至るまで、争いや衝突が絶え間なく続いてきました。
私は以前から、このような混乱と恐怖に陥れている事柄すべてを、感情論を持ち込まずに包括、調和させていくことができる方法が、「哲学する」ことだと思っています。
しかも、ただ「哲学する」だけではなく、そこには「人格」が備わっていなければならないと考えています。
ということで、今回のキーワードは、「哲学する」と「人格」です。
まず「哲学」という名詞は、大辞林を調べると
[1] 世界・人生などの根本原理を追求する学問。
古代ギリシアでは学問一般として自然を含む多くの対象を包括していたが、のち諸学が分化・独立することによって、その対象領域が限定されていった。しかし、知識の体系としての諸学の根底をなすという性格は常に失われない。認識論・論理学・存在論・倫理学・美学などの領域を含む。
[2] 各人の経験に基づく人生観や世界観。また、物事を統一的に把握する理念。
「仕事に対しての―をもつ」「人生―」
とあります。
でも私が言いたい「哲学する」という動詞の意味は少しニュアンスが違います。
もともと「哲学」は「philosophia(フィロソフィア)」という言葉が語源で、「愛智」つまり、「知を愛する」「智を愛する」という意味が込められているのです。
真理といわれるものや正解って、見る角度や時代によって違ってくる場合があります。
ニュートン力学が土台となりながらもその常識を覆したのが、アインシュタインの相対性理論であり、その相対性理論では説明できないところを解明してきたのが量子力学。
というように科学はそれまでの理論を否定したり土台にしながら発展し続けています。
ニュートンは落ちるリンゴを見ながら哲学をしたのです。
人は月を見て、「綺麗だな」と思うと同時に、「そこに行ってみたい」「行くにはどうすればいいのだろう」と哲学をし、ついには月にロケットを飛ばしてしまったのです。
人間が他の生物と違うところ、それがまさに「哲学する」ことができるという点です。
知ることを愛しているのです。
サルがどんなに綺麗なお月様を見ても、そこにロケットを飛ばすことは、サルである限りないでしょう。
「人間は考える葦である」
これはみなさんもご存じの通り、物理学者でもあり、宗教者、哲学者でもあるパスカルの有名な言葉です。
人間は大自然の中では、風に弱い葦のように小さい生き物に過ぎないが、考える、つまり哲学することにより宇宙を超越するほどの存在であるという意味ととらえることができます。
全体にとってより良い答えを導き出そうとする行為、それが「哲学する」ことなのです。
言い換えると、
哲学する=より高次元かつ公益性を帯びた答えを導き出そうとする
次に「人格」を大辞林で調べてみると、
[1] ア 独立した個人としてのその人の人間性。
その人固有の、人間としてのありかた。
「相手の—を尊重する」「—を疑われるような行為」
イ すぐれた人間性。また、人間性がすぐれていること。
「能力・—ともに備わった人物」
[2] 心理学で、個人に独自の行動傾向をあらわす統一的全体。
性格とほぼ同義だが、知能的面を含んだ広義の概念。
パーソナリティー。「—形成」「二重—」
[3] 倫理学で、自律的行為の主体として、自由意志を持った個人。
[4] 法律上の行為をなす主体。
権利を有し、義務を負う資格のある者。権利能力。
私たちはよく、「あの人は人格的な人だ」とか「人格がおかしい」などの表現を使います。
そこには「愛」とか「信頼」、「尊重」などという意味が込められており、生まれてから死ぬまで、この「人格」を磨くために日々の生活を送っていると言っても過言ではありません。
ここで、人格主義を標榜する『7つの習慣』から引用してみます。
哲学するにおいて、ただテクニック(技法)やスキルだけで、ディスカッションやディベートを重ねていくことは簡単です。しかし、相手を尊重し理解しようとする気持ちや、より高次元かつ公益性を帯びた答えを導き出そうとする人格と動機がなければ、その途中で必ず衝突や争いが生じてくるでしょう。
人格をそなえた人たちが哲学することにより、個人から世界、宇宙規模までの諸問題を解決していくことができると思うのです。
そういえば、このブログのタイトルは、「良いとこ取りの人生哲学」です。
たかだか、人生は80年前後。
どうせ歩むなら、楽しみたいものです。
そのためにも、「自分なりの人生哲学を持っていたい」と思ってはじめたこのブログですが、色々勉強を進めていくうちに、「人生哲学を持つ」というより、「人生を哲学する」という表現がしっくりいくということが分かったのです。
先人や先輩たちが残してくれたたくさんの言葉や思想、人生哲学の良いとこ取りをしながら、自分の人生を哲学していく。
「人生哲学を確立する」というと、一つの信念ができあがってしまい、それに固執するあまり、他の意見を受け入れなくなる危険性が生じます。
そうではなく、常にさまざまな情報を柔軟にインプットしながら、哲学することで、より発展し、より良い効果性を生み出すことができると思うのです。
一生懸命哲学しながら得た答えが人それぞれ人によって異なるのは仕方がないし、その答え自体も時や場合とともに次の新しい考え方によって否定されたり、踏み台になり、より素晴らしい答えを導き出す可能性だってあるのです。
そういうことを受け入れることのできる人格をそなえているかどうかがとても重要になるわけです。
ここで、今年の2月に投稿した記事「オリンピックとニーチェの日」で『超訳 ニーチェの言葉』から引用した文章をもう一度引用してみます。
世界中の人々を同じ思想や価値観でひっくるめてしまうことは不可能だし、どうやら最初からそうはなっていないようです。
社会の最小単位の家庭でさえも、親子、夫婦、兄弟間で意見や人生哲学が異なるわけですから、ましてや民族や文化の違うレベルになってくるとなおさらです。
そこで、人格的に哲学をしていくことができるように、人間には最初から羅針盤(「時計と羅針盤(コンパス)と感情」参照)が与えられているのだと思います。
だから、小さい頃から人格(道徳)と哲学的思考を身につけさせる教育の環境は絶対必要だと感じています。
人格的に哲学する習慣を身につけることによって、傲慢になったり、排他的にならずに、さまざまな価値観や考え方を認めながらも自分自身の人生哲学に磨きをかけていくことができると思うのです。
そういう人たちで構成される社会では、争いごとや戦争は起きるはずがありません。お互いを尊重しているのですから。
たとえ起きたとしても、より高次元かつ公益性を帯びた結果を人格的に導き出そうと努力するはずです。
結局いつになく少し堅い話になってしまいました。
読書の秋、教養の秋、まだ暑い日々が続いてはおりますが、秋の夜長、自分の人生を振り返ってみて、あるいは将来の展望を考えながら、深く哲学してみるのもなかなか楽しいものですよ。
最後までお付き合いくださりありがとうございました。
お兄ちゃん。「哲学なんてくそくらえ」と言った哲学者は、今までいるかしら。
私は今、そんな気分です。
いろんな問題にぶつかると哲学的に考えざるを得ない。
ところが自分のことになると、いろんな感情に襲われて頭では正しいことが分かっているつもりでも心が揺れ動く。
一度決心したのに何度も何度も。
たぶん、私の中で自然に弁証法をしてるのかな。
だから、葛藤やいろんな気持ちが生まれるのかな。
そんな中で感情を持ち込まないで考えるのって、とっても大変。
公共性をもたらすことに関しては、理性的でいられるけれど、個人的な問題に関してはほんとに難しい。
とてもやっかいな感情だけど、感情があるから感動できるんだよね。
人格も、きっと知と感情で育てられる。
だから排除するものじゃなくて、コントロールするものなんだ…。
感情をコントロールするのが人格なんだね。
爆発させてしまいたいような感情と、それをしたら壊れてしまいそうな不安で
哲学なんてくそくらえ!という哲学をしている秋になりました。
fuuちゃん、コメントありがとう。
私が返信するまでもなく、きちっと哲学されてて、ほぼ自己完結してるコメントを微笑みながら読んだよ。
人に「感情」というコントロールしにくい部分があるからこそ哲学や宗教、はたまた芸術が生まれたのかなって思うよ。
特に男女間の感情に関しては、理性も知性もブレーキにはなり得ないことがあるよね。
だから、芸術(音楽や絵画)なんかは男女間の感情をモチーフにしてるのが多いのかもね。
逆に、ソクラテスは、クサンティッペという悪妻がいたからこそ、感情にふたをして哲学的思考に没頭できたのかもしれないね。
でも、考えようによっては、感情や愛情が理性や知性より勝ってるからこそ、人間はとてつもない奇跡を起こせるのかもしれないよ。
いずれにせよ、感情と理性フル回転の哲学の秋になりそうだね。
がんばれー!!ファイトー!
こんにちは!先日からこのブログを読ませていただいています。自分の考えるところと重なるところが結構あったりして毎回フムフムと感心しながら読ませていただいていますよ。そうですね、どんな宗教であれ、どんな人であれ自ら歓んで争いを吹っかける人はいません。皆平和な幸せを求めているのです。しかしながら、現実として終わらない様々な争いをみると、争いの原因は結局のところ相手の意見に耳を傾けることのできる人格者が少ないということにあるのかしら。私は今育児真っ只中ですが、子供を教育する上で重要視しているのはやはり道徳心や、愛情の本質を身体にしみこませることです。っね!
ひでちさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
おっしゃる通り、みんな平和で幸せな争いのない世界を求めていますよね。
結局、人の数だけ違う価値観があり、考え方があるので当然衝突は生じます。
その刺激に対してどう反応するかが問題だなって思います。つまりこの部分が人格だと思うのです。
うちも中二から幼稚園児までいるので、教育に関してはとても関心があります。
家庭では、学校ではなかな教えてくれない道徳心や、礼儀、目に見えないものへの畏敬の念などを教えていくことができればなと思っています。
『絆』日記、拝見しました。
共感が持てる内容がたくさんありそうなので、今後、ちょこちょこ訪問さていただきます。
さな爺さん、お返事を有難うございました。そうなんです、相手の反応に対してYes/Noで切り捨てるのではなく、その前に何故相手がそう思ったのか、そう言ったのか、反応したのか理解しようとすることが一番大事なのだと私も思います。つまりさな爺さんの仰るとおり『刺激に対してどう反応するか』がポイントですよね。そこのところ本当によくわかりますよ!私も子供に『人として大事なこと』を教えられるのはやっぱり家庭だと思っています。核がしっかりしていれば子供もその先はちゃんとした一人前に人間になるのだと信じています。善悪の判断がついた道徳心のある器の大きな人間に育てること、それが親の使命だと思っています。我が家の子供は1年生と3歳の男の子ですが、育児、頑張りたいと思います。さな爺さんも育児頑張ってくださいね。
早速、私のブログにもきていただきまして有難うございました。色々意見交換ができたら嬉しいです。これからも宜しくお願いします。
ひでちさん、コメント感謝です。
本能だけで動く動物と人間の違うところがまさに「刺激と反応の間のスペース」だと思います。
この辺の内容に関しては、よろしかったら以前の投稿↑も合わせて読んでみて下さい。
ところで、ひでちさんはTwitterはされてませんか。
もしされているのでしたら、@sanageeをフォローして下されば、こちらからもフォローいたします。
今後ともよろしくお願いします。
こんばんは。週末に自分の時間もあまりなく、家事に育児に追われていてご紹介いただいたブログを深く噛み砕いて読むまでにいたっていませんが折をみて読んでいますね。有難うございます。それにしてもさな爺さん、色々な本を読んでいるのですね。
TwitterもMixiもしてないんですよ。ブログとfacebookだけです。今週は連休ですね、いい時間を過ごしてくださいね。