私たちが人に対して「成長する」という場合、肉体的に身長が伸びたりする意味でも使いますが、ほとんどの場合、心や人格の成長を言うときに使います。
ストイックに一人で山に籠もって修行することも心を強くし、精神的に成長するかもしれませんが、社会に出て、さまざまな人間関係の中で、普通に生活するだけでも、人格は研かれていきます。
いやむしろ、俗世を離れて一人で修行するより、職場や学校、家庭生活などの日常の方が、心の成長をさせてくれる要素が盛りだくさんです。
人間関係ゆえに、成功もする場合もあれば、病気になる可能性もあります。
また、人間関係ゆえに人格が研かれ、大きく成長することもできます。
以下、『それでもなお、人を愛しなさい 人生の意味を見つけるための逆説の10カ条』より。
人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。
それでもなお、人を愛しなさい。
チャールズ・シュルツの漫画、『ピーナッツ』の主人公の一人、ルーシーが言ったことがあります。「私、人類は大好きなんだけど、がまんできないのは人なのよ」
人は確かに一筋縄ではいきません。簡単には好きになれない人もいます。なかには、あまりにも非論理的で、わからず屋で、わがままで、がまんできないような人もいます。しかし、それでも、私たちはそういう人を愛すべきです。
与えるにしても、受けとるにしても、愛ほど素晴らしい贈り物はないのですから。愛情こそは、すべての人が与える必要のある贈り物であり、受けとる必要がある贈り物です。愛のない人生なんて、百パーセントの人生とは言えません。愛を制限すれば、人生を制限することになります。
心理学者のアブラハム・マズローはかつて「人間の成長にとって、愛はビタミンやミネラル、タンパク質と同じくらい不可欠である」と言っています。人間は愛を燃料として動くものだと私は信じています。そういう風にできているのです。
愛を与え、愛を受けとっていなければ、エンジンが全開しているとは言えません。本来の自分になっていません。自分がもっている可能性をすべて体現した状態になっていません。できることをすべてやっている状態ではありません。
私たちは同意してもらえないからといって人を愛さないことにしようと決めることがあります。あるいは、この人は不合理な人だ、わからず屋だ、わがままな人だ。だからこの人は愛する価値がないと決めつけたりします。これは悲劇です。なぜ悲劇かというと、愛は、他人に同意してもらえるかとか、愛する価値があるかという問題ではないからです。愛とはそのようなものではありえません。
人間関係は、親子、兄弟、上司と部下、恋人同士、友人、隣近所…と、
さまざまな形がありますが、たくさんの人と交われば交わるほど、傷つく可能性も増します。
でも、傷つくことを恐れていては、それ以上の喜びや感動、そして自分自身の大きな成長を実感させてくれるチャンスをも逃してしまうことになります。。
成長にはどうしても痛みが伴うときがあります。
それはあたかも脱皮していくようなもの。
相当大がかりな作業になることもあるかもしれません。
マクスウェル・マルツ著『潜在意識が答えを知っている!』に以下のような一節があります。
創造的に生きるためには、多少の危険には積極的に身をさらさないといけない。必要に応じて、少しは傷つく覚悟が必要なのだ。もちろん、心の皮膚をもっと厚く丈夫にする必要がある人はたくさんいる。しかし、必要なのは頑丈な心の皮であって、殻ではない。人を信じ、愛し、心を通わせることは、傷つく危険を冒すことでもある。そして傷ついたときには、ふたつの選択肢がある。
ひとつは、二度と傷つかないよう、貝のように硬い殻(傷跡)で身を守って生きていくというもの。
もうひとつは、「叩かれたらもう片方の頬を差し出し」、危険に身をさらしながら創造的に生きつづけるというものだ。
貝は傷つかない。外的から身を守る硬い殻をもち、周囲から隔絶されている。安全かもしれないが、創造的ではない。欲しい物を自分から追求できず、ただ獲物がやってくるのを待つしかない。外界とのやりとりで傷つくことはないが、同時に喜びを知ることもできない。
人間関係だけに限らず、スポーツや登山、ビジネスなども、傷ついたり、けがを恐れてばかりいては、記録や勝利感、成功を達成することは難しくなります。
日々の生活の中で、避けて通りたいと思う人や仕事、あるいは出来事ほど、実は私自身の器を大きく広げ、さらに強固にしてくれるものなのです。
そういう見方をすると、今までどうしても愛せなかった上司や部下、家族、あるいは、どうしてもやりがいを見いだせなかった仕事などに対して、貝のように心を閉ざしたり、逃げるのではなく、少しは傷つくことを覚悟に真っ向から対してみると、まったく違った感情が生まれてくるかもしれません。
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